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目次
黒田家のエリート武将・後藤又兵衛の転職人生
後藤又兵衛は、黒田家に仕え、数多くの戦場で勇名を馳せた武将です。
最も後藤又兵衛の名を世に知らしめたのは「大阪の陣」でしょう。
豪傑で武略に富み、数々の戦場で華々しい活躍をみせて又兵衛ですが、若くから主人を替えるという転職を繰り返した武将でもありました。
若い頃の転職は、非常にスムーズかつ順調にキャリアを積んだ後藤又兵衛。
しかし、晩年の黒田家からの退職で、雲行きが怪しくなります。
経験も実績もある又兵衛でしたが、退職理由でつまずき、転職活動で苦戦するようになるのです。
現代でも通じるキャリアを積んだ後の転職活動の苦悩を、後藤又兵衛を通して綴ってみます。
後藤又兵衛の履歴書
1560年、後藤又兵衛は姫路で生まれたとされています。
幼くして父親を失った又兵衛は、当時、小寺家の家臣であった黒田官兵衛の下で育てられました。
黒田官兵衛は、いわば養父のような関係であったようです。
・後藤又兵衛:前半生の転職活動
後藤又兵衛は、小寺家の重臣である黒田官兵衛の家臣として仕え、軍事の才能を開花します。
そして、1570年頃、一つの転機を迎えます。
その頃、小寺家では、中国の毛利氏につくか、飛ぶ鳥を落とす勢いのある織田家につくかで迷っていたところ、重臣・黒田官兵衛の助言により、小寺家は、官兵衛の主導の下、織田家傘下になります。
しかし、1578年、摂津国に勢力を張る荒木村重が突然、織田家を裏切り、毛利家につきます。
この窮状を打開するため、黒田官兵衛は荒木村重の説得するため有岡城に向かいますが、逆に捕えられ、牢獄に幽閉されます。
帰ってこない官兵衛に対して、「黒田官兵衛は裏切った」と勘違いされます。
当主不在で、織田家の裏切りを疑われている黒田家に動揺が走ります。
黒田家は、忠誠を示すための誓紙の提出を求めますが、これを拒んだ後藤又兵衛の叔父により、又兵衛は、黒田家を追放されます。
後藤又兵衛、18歳ごろの出来事でございます。
やがて毛利家についた小寺家も滅亡し、幽閉された黒田官兵衛も黒田家当主として復帰します。
黒田官兵衛に仕えたい気持ちがある又兵衛ですが、追放された身でもあります。
それに追放されて、しばらくすると仙石秀久に雇われていました。
仙石秀久の下で、数々の武功を挙げ、世間に名前を覚えられる程度にはなった又兵衛ですが、仙石家を退職しなければならない事件が発生します。
この事件が後の九州征伐と呼ばれる緒戦「戸次川の戦い」。
戦国最強と呼ばれる島津家との戦いである「戸次川の戦い」は、味方の反対を押し切って強攻した仙石秀久の大敗北に終わります。
しかも味方陣営が窮地に陥った時に、なんと秀久は、戦地から逃亡してしまうのです。
この結果、長宗我部元親の愛息であった長宗我部信親や十河存保などの有力な四国勢が、討たれてしまうという事態に陥ります。
愛息を失った長宗我部元親は、この戦いを契機に、性格が変貌したとも言われています。
この事件により、仙石秀久は追放されます。
当然、後藤又兵衛も主家を失い、再び浪人生活を送ることになるのです。
そして、再び黒田家に士官が許されます。
追放から長い年月があったことによる士官でしょう。
黒田官兵衛には、100石で雇われる訳ですが、現代で給料で言うと年収500万ほど、武士の平均年収ほどの採用です。
まとめ:前半生の履歴書
これまでの後藤又兵衛の履歴書をまとめると
・黒田官兵衛の黒田家に入社
・叔父の離反により、黒田家を退職
・しばらく転職活動後、仙石家に中途入社
→合戦に参加し、マネージメント能力などの経験と実績を積む
・会社都合により仙石家を退職
・しばらく転職後、黒田家に再雇用
→黒田家には、平均年収で中途入社
退職を余儀なくされた転職ですが、順調にキャリアを積んでいるように思えます。
転職を重ね、順調にキャリアアップを図っている後藤又兵衛。
最後の転職先として黒田家に骨を埋める覚悟でしたが、思いもよらず、人間関係で退職せざるを得なくなるのでした。
・2代目・黒田長政との人間関係
黒田官兵衛から100万石で召し抱えられた後藤又兵衛は、順調にキャリアを積んでいきます。
後藤又兵衛の実績で言えば
黒田家が豊前国(福岡県)に転封後、城井(宇都宮)鎮房(きいしげふさ)が退去を拒んで、戦いに発展するという出来事があります。
血気盛んな黒田官兵衛の息子・黒田長政が、鎮房の守る城井谷を強襲しますが、逆に大敗し、黒田軍が総崩れになりかけます。
その際、又兵衛は「雷火砲」という兵器を開発し、見事、殿(しんがり)を務めて、総崩れを食い止めたそうです。
この大敗北を大層、悔やんだ長政が「出家して詫びる」と言い出したそうですが、又兵衛は、「くだらない」と一蹴したとも。
また朝鮮出兵時においても後藤又兵衛は、「亀甲車」を用いて、城攻めに大いに貢献したそうです。
黒田軍の強さは、まさに後藤又兵衛あっての強さであると評判が立つようになりました。
そして関ヶ原の合戦でも大いに活躍した又兵衛は、黒田家重臣として、大隈城の城主となり16000石の所得を得るようになったのです。
100石からのスタートですので、実に160倍。
年収8億といったところでしょうか。
後藤又兵衛の評判や名声が面白くない黒田長政。
事あるごとに嫌味・パワハラを繰り返します。
後藤又兵衛も負けてはいません。
ある時、朝鮮出兵で敵将と一騎打ちとなり、落馬して格闘戦になった黒田長政。
本来ならば助けなければならない状況でも又兵衛は、助けず見守っていたそうです。
負けるようであれば、殿としての力量不足と言い放ったとか。
気に入らないのは、お互い様なのですが、そこは立場が下の方が分が悪いのが、世間というものです。
養父であり、尊敬してやまない黒田官兵衛が亡くなると、後藤又兵衛は、黒田家を去る事になります。
よほど、二代目長政の下で働くのが嫌だったのか。
長政に代替わりすると、閉職に追いやられる予感があったのか。
ふたたび、後藤又兵衛は浪人となり、転職活動の日々となるのでした。
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・後藤又兵衛の退職理由
後藤又兵衛の退職理由は、上司との人間関係が上手くいかず退職しました。
ですので「一身上の都合による」というものなのですが、又兵衛を許せない黒田長政は、著しい会社規定を逸脱した行為による解雇としたのです。
後藤又兵衛は、細川家と頻繁に書状を交わしていたとされ、それが武家法度の謀反の疑い有りとによる解雇とされたのです。
この退職理由により、後藤又兵衛は、他家に出仕できないようになってしまうのです。
一身上の都合による退職と解雇による退職では、天と地ほどの差があります。
書類審査でなかなか通らないことは勿論、面談に応じてくれる企業においても、通過するのが厳しい状況です。
順調にキャリアを積んだ又兵衛は、書類審査で、ことごとく落ちる日々を過ごすのでした。
・書類選考で、ことごとく落ちる日々
当時「奉公構(ほうこうかまえ)」というものがありました。
これは武将が他家に仕えることがないよう釘を刺す回状の事です。
黒田長政は、後藤又兵衛に対し、この奉公構を発行しています。
「もし後藤又兵衛を他家に士官するなら、黒田家との合戦になるぞ」という恫喝のような回状です。
勿論、キャリアのある後藤又兵衛ですので、細川忠興・福島正則・藤堂高虎などの大名が召し抱えようとします。
しかし、この黒田長政の奉公構により、他家も又兵衛を士官させることが出来なかったのです。
書類を出しても出しても書類落ちの後藤又兵衛。
転職先も見つからず、京都で浪人生活を送る日々だったのです。
・豊臣家で契約社員として働く後藤又兵衛
ひもじい浪人生活を送る後藤又兵衛に、一つの転機が訪れます。
関ヶ原の戦さに勝利した徳川家康が、とうとう豊臣家を討伐するため戦さを仕掛けてきたのです。
これが有名な「大阪の陣」です。
大半が徳川方に靡いている大名に対抗するため、豊臣家は、莫大な資金を投じ、全国から兵を集うのです。
昔は名の知れた企業が、年齢・キャリア・未経験問わず、誰でも応募できるといった感じでしょうか。
この話を聞いた後藤又兵衛は、嬉々として豊臣家の大量募集に応募し、見事採用されます。
黒田家の現当主・黒田長政に疎まれ、奉公構も出され、行き場も生き場もなかった浪人・後藤又兵衛、最後の最後の就職先です。
ただし、身分は豊臣家の正規雇用ではなく、いわば契約社員。
給料は、豊臣家が徳川家に勝てれば、報酬を貰えるといった歩合制。
同期入社には、
徳川家に嫌われ、高野山に蟄居させられた偉大な軍略家の息子・真田幸村。
四国の雄・長宗我部氏の末裔である寺子屋の先生・長宗我部盛親。
キリシタンの自由と主家・宇喜多秀家の解放を謳う・明石全登(たけのり or ぜんとう or てるずみ)。
どれも一癖も二癖もあるメンツです。
共通しているところは、負けを知り、痛い目しか味わっていないが諦めの悪いところ。
この転職苦労組が、天下の権威である徳川家を最後まで苦しめる存在となり、獅子奮迅の活躍を魅せるのでした。
▼同期入社組の真田幸村の活躍を知りたい方は▼
・まとめ:後半生の履歴書
後半生の後藤又兵衛の履歴書は
・黒田家に再雇用
→組織のリーダーとして、数々のプロジェクトで成果を出す
・黒田家の重臣として、城主となる
→年収8億円ほどになり、黒田家の重役として活躍
・黒田家の社長が退任し、2代目になる
・2代目と経営上の確執が表面化
・一身上の都合により退社
→企業側は、コンプライアンス違反で解雇としている
・転職活動するも内定には至らず、しばらく浪人として過ごす
・豊臣家の大規模採用に募集し、契約社員で入社
・大阪夏の陣・道明寺の戦いにより、10倍の敵に対し奮戦後、戦死。
転職のカギ!採用担当は何を見ているか?
散々な苦労をして、やっと豊臣家に拾ってもらうような形で入社した後藤又兵衛ですが、現代の採用担当者は、応募者に対して、どのような点を見ているのでしょうか。
例えば、後藤又兵衛のように、例え素晴らしいキャリアがあったとしても、採用されないことはあります。
それは、日本企業の採用基準が2点だけだからです。
①定着
②活躍
つまり、長く働いて、給料に見合った働きができる人材を採用すること。
言い換えると、文句を言わず、低い給料提示でも働ける人材を採用するとも言えます。
人事の採用部門の成果は、辞めない人材であり、成果に見合った人材を確保することなのです。
そのような基準なので、日本の転職は難しく、若ければ若いほど、採用されやすい構造となっているのです。
世界の転職事情とは、まるで違う構造が日本の転職事情であり、特に少子高齢化が進む日本においては、いつまでも構造を変えない組織が多く、大きく遅れをとっているのです。
後藤又兵衛も、この基準に照らし合わせると
①前職の社長との人間関係が悪化して、退職しているので、同じような理由で辞めないか
②前職の会社からコンプライアンス違反をしているとの報告があり、自分のやり方に固執して、組織のやり方に適応できないのではないか。
または前職ほどの成果は見込めないのではないか。
と受け取られてしまう可能性が高く、採用には至らないケースが多いのではと思われます。
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今も昔も転職活動は難し
後藤又兵衛は、黒田官兵衛に育てられ、見込まれた武将ですが、官兵衛の息子である黒田長政に疎まれ、黒田家を出奔するに至ります。
後半生は、黒田長政の嫌がらせともいえる妨害により、他家に出仕することが出来ず、最後は豊臣家の傭兵として、大阪の陣に参戦し、その名を天下に轟かせました。
後藤又兵衛が求めた仕事の価値観とは、自分らしく働くということではないでしょうか。
余談になりますが、大阪の陣では、後藤又兵衛を高く評価していた徳川家康は、豊臣方から願えるのであれば、城持ちにして迎えると勧誘しますが、又兵衛は、この誘いを辞退しています。
徳川体制では、自分らしく働けないと思ったのか、転職に疲れ果てたのか、黒田長政の妨害があるのではと思ったのか。
恐らく、戦場での、やりがいを一番に考えた選択であったのでしょう。
この価値観を黒田長政が理解し、強みを発揮する場所で働かせたのでならば、どのような活躍を見せたことでしょう。
昨今の日本企業は、特に中小企業では、このような考えに至らず、労働力の搾取にのみ力を注いでいるように思えます。
最後の最後に後藤又兵衛の華々しい活躍を目の当たりにした黒田長政の心模様は、どのようなものだったのでしょうか。
自分の度量不足による後悔だったのか。
あくまでも他人事かのような無関心だったのか。
願わくば前者であって欲しいと願うばかりです。
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