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真田幸村親子は連獅子親子だ!
「日本一の兵(つわもの)」が代名詞である真田幸村ですが、有終の美を飾ることができたのは、真田一家の悲願です。
まさに真田親子の親子関係は、歌舞伎の演目「連獅子」のような関係です。
真田幸村は、大阪冬の陣・夏の陣の活躍まで無名の新人でした。
幼少の頃から人質生活を余儀なくされた人物です。
上杉謙信・豊臣秀吉の下に人質として出された幸村は、父・真田昌幸に崖から突き落とされた仔獅子のようなものです。
そこから這い上がった真田幸村が、大阪の陣で獅子奮迅の活躍を見せ、天下に武名を轟かせました。
そして、もう一人の仔獅子・徳川秀忠。
徳川秀忠もまた、徳川家康という天下の覇者から厳しく育てられました。
歌舞伎の演目である「連獅子」は、仔獅子にとって、初めて親獅子に認められる舞台であり、正念場です。
真田幸村と徳川秀忠の二人の仔獅子は、大阪の陣で正念場を迎えるのでした。
はたして二人は、どのように活躍を、活路を見出したのでしょうか。
親子の情念が溢れる歌舞伎・連獅子!
連獅子の魅力は、なんといっても「毛振り」と呼ばれる、髪の毛を振り乱し、そして一糸乱れぬ親子の演舞の美しさが見どころの歌舞伎です。
そして実際に、歌舞伎一門の親子が演じることの多い作品として有名です。
親から子へ、伝統芸能を引き継いでいく。
その為、師匠でもある親が、子に厳しくも愛情を注いで稽古していく姿は、連獅子の姿と相まって、感動的ですらあります。
荒々しい「毛振り」と親子の「情愛と厳しさ」。
この2点が歌舞伎・連獅子の魅力なのです。
・演目「連獅子」とは
連獅子は、能と狂言をベースとした舞踊歌舞伎です。
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の作で、歌舞伎で代表的な一つになっております。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という中国の古事にちなんだ歌舞伎で、親である赤獅子が仔である白獅子を何度も谷に蹴り落とす様は圧巻です。
途中、狂言師たちが、宗派の違うことで言い争いになる場面などで、緊張と緩和を上手く使い分けて、観る者を飽きさせません。
最後は、狂おしくも荒々しい「毛振り」という最後でございます。
詳しいあらすじなどは、知らなくても楽しめ、むしろ知らないから楽しめる、一流のエンターティメントとして成立しているのが連獅子です。
ちなみに「毛振り」は、左右に振るのが「髪洗い」、回転させるのが「巴(ともえ)」、叩きつけるのが「菖蒲叩き(しょうぶたたき)」です。
現代でも歌舞伎に似た所作が見られます。
それがハートロックに見られるヘッドバンキング!
ヘッドバンキング、通称「ヘドバン」も8の字ヘドバン、回転ヘドバン、星型ヘドバンなど数種類あります。
人は何かを表現するとき、体と頭を動かして、意思表示するのかも知れません。
・連獅子は、歌舞伎一家の登竜門
連獅子の見どころの一つが、歌舞伎一家の親子共演でしょう。
どの世界でも、親子共演は非常に見どころの場面であり、その姿が一つのドラマととして成立します。
特に子である歌舞伎役者が、その一家を継げるかどうかといった大事な演目の一つでもあり、相当なストレス・プレッシャーであることでしょう。
生まれた時から当たり前のように予定されていた歌舞伎役者の世界で、名跡と呼ばれた親と肩を並べる演目。
その歌舞伎役者が自分の生涯をかけて成し遂げる歌舞伎にハマる瞬間があるとするなら、それは「連獅子」という歌舞伎演目ではないでしょうか。
歌舞伎一門での親子連獅子は、数多くありますが、1番おすすめしたいのが、中村屋です。
あの中村勘三郎と勘九郎、七之助兄弟が連獅子を演じていたのが、2007年です。
当時、テレビ番組の特集で、親子の厳しさと愛情を垣間見ることができ、非常に興味深く拝見したのを覚えています。
その中村勘九郎(現・中村勘三郎)が、愛息である勘太郎9歳と史上最年少で演じたのが、2021年の「二月大歌舞伎」でした。
中村屋のDNAが親から子へと受け継がれる中村屋連獅子は、歌舞伎の奥深さをより一層感じることができる演目であり、中村屋連獅子こそが、中村屋の歴史そのものなのです。
真田一家の敵役・徳川一家!
物語には、敵役がいてこそ成立します。
その敵役が、強ければ強いほど物語に箔がつくというものです。
真田一家の因縁相手は、天下の大将軍徳川一門。
天下一の曲者・真田昌幸から始まる因縁とその運命に左右された幸村は、どのように過ごし、天下一の兵と呼ばれるようになったのでしょうか。
それを迎え撃つ徳川一門。
真田一家と徳川一門の因縁の歴史は、武田家が滅んだ頃からの因縁だったのでした。
・真田一家との因縁
武田信玄の部下として、その才覚を余すところなく発揮していた真田昌幸ですが、武田家が滅亡したところで運命が180度変わります。
上杉、北条、徳川と渡りあるいた裏切りの名人・真田昌幸は、ついに徳川家康と一戦を交えることになるのでした。
・「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者・真田昌幸の関ヶ原
真田昌幸と徳川家康の因縁は、上田城を舞台に始まります。
上田城合戦は、2度行いますが、どちらも徳川家康の敗北で決着しています。
1度目は、徳川軍7000人に対し真田軍2000人の圧倒的不利の状況。
戦略家である真田昌幸に翻弄され、徳川軍は、完膚なきまでに叩きのめします。
そして2度目の上田城の戦いで昌幸は、功を焦る徳川秀忠を見事に翻弄します。
上田城の戦いが長引いたため、秀忠は、主戦場である関ヶ原の戦いに遅刻し、徳川家康を怒らせます。
そして関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、2度の辛酸を舐めさせられた真田昌幸を許さず、高野山に幽閉します。
「試合に勝って、勝負に負ける」とは、このこと。
真田昌幸は、失意のうちに、高野山で無為に時を過ごすことになるのです。
ちなみに表裏比興とは、裏切りが多く世の中を上手く立ち回るといった意味で、戦国時代では寧ろ褒め言葉で使われていました。
上手く立ち回るはずの真田昌幸、関ヶ原の戦いは、彼の誤算だったのか。
それとも、ライバル家康に対する一生一代の大勝負だったのか。
それとは別に、豊臣方・徳川方、どちらについても損をしないように、息子を東西に分けてbetしているところは、勝負師と言わざるを得ません。
結局、勝負に負けた昌幸・幸村親子は、徳川の監視の下、貧乏な高野山生活を始めるのでした。
・失意の高野山・真田幸村
真田幸村は、不幸な運命の人物です。
生まれた頃から不幸です。
戦国時代、次男は長男に比べ冷遇される、或いは、いてもいなくても良い存在です。
それゆえ、政治の駒として扱われることが多く、幸村も上杉謙信、豊臣秀吉の小姓として従事しますが、体のいい人質といったところです。
そして成人してからは、上田城合戦に参加するも高野山に幽閉という始末です。
父・昌幸に付き従う形で西軍に味方はしたが、東軍についた兄を恨んだこともあるでしょう。
そして西軍についた自分自身の運の無さを恨んだことでしょう。
真田幸村の人生は、谷の連続です。
後半は貧乏生活で、その日の暮らしにも困りはてる始末です。
昔は名将、今や気難しい老人となった父親の面倒を見る日々に、後悔の念や心が折れる日もあったでしょう。
このまま自分の人生が終了すると思っていた幸村に、豊臣方が大阪城にて牢人を募っているという噂が流れます。
どうせ朽ちるのなら戦場で!
我が名を世の中に喧伝するといった功名心!
ついに、どん底の谷から落ちた獅子が這い上がる機会が訪れたのです。
・もう一つの連獅子・徳川一家の因縁
徳川家康の逃げっぷりは、他の追随を許さないほど人間らしく、必死に逃げます。
家康は、過去何度も逃げ回っています。
桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、伊賀越えなど数えればキリがないほどの逃げ上手です。
逃げにも、経験がいるのか、大阪冬の陣の逃げっぷりは、生涯で一番というほどの逃げだったのではないでしょうか。
逃げの上手さが天下統一を果たした徳川家康、生まれた時から優等生であった徳川秀忠。
徳川親子は、どのような親子だったのでしょうか。
・「天下の古狸(ふるだぬき)」・徳川家康の関ヶ原
徳川家康は、我慢の人です。
しかも目的を持って、忍従に耐えることができる人物です。
この忍従と得意の逃げが特徴の徳川家康の関ヶ原は、一番の大勝負といっても過言ではないでしょう。
徳川家康本人は、天才の部類ではなく一般的な凡才の部類に入る人物です。
しかし真似ぶことや人の気持ちを察することができる感受性は、凡才とは言い難い能力の持ち主です。
徳川家康のお手本が、織田信長であり、武田信玄と言われます。
徳川家康にとっての関ヶ原は、奇襲戦であった桶狭間であり、知能戦であった三方ヶ原であったのです。
小早川金吾を裏切らせ、石田三成を本気させるように戦略を張り巡らす様は、織田信長や武田信玄よりも遥か先にいくほどの大戦略家です。
毀誉褒貶(きよほうへん)一貫ならざる人物・家康の晩年のあだ名は、古狸です。
この古狸が勝ち抜いた関ヶ原の先に、「国家安康」に難癖をつけ、豊臣家壊滅作戦である大阪の陣に発展するのでした。
・関ヶ原の大失態・徳川秀忠
徳川秀忠は、江戸幕府を軌道に乗せ、幕藩体制の礎を築いた名君です。
幼い頃から英才教育を施された秀忠ですが、兄弟には、徳川信康、異母兄弟に結城秀康と勇猛果敢で知られる武将が存在しました。
その当時は、いわゆる「長幼の序」が確立している訳ではないので、秀忠も家督を継ぐチャンスはありました。
とはいえ長男である信康と比べると見劣りするのは、誰が見ても歴然でした。
しかし、徳川信康が切腹するという事件以降は、次期徳川家当主として期待され、厳しく教育されたのです。
その期待に応えたい秀忠ですが、関ヶ原に遅刻するという大失敗を起こします。
父親の家康の怒りは、治りません。
このままでは、将軍職も継げないかと不安でしたが、無事、2代目将軍として跡目を継ぐことができた秀忠。
しかし、いつ将軍職を解任されるか、戦々恐々としていたことでしょう。
晩年の家康は、息子に深い愛情を示す人間でしたが、天下を獲るまでの家康は、息子に冷淡な親父でした。
親に認められたい秀忠は、大阪の陣こそ、自身の正念場だったのです。
そしての仔獅子の舞台は、大阪の陣へ!
なんとか徳川の監視をかい潜って、大阪城にたどり着いた真田幸村。
豊臣方は、あの真田昌幸が大阪城に着いたと大歓声ですが、いざ謁見すると、無名の新人で父親が有名なだけの馬の骨。
かたや晴れて2代目将軍になった徳川秀忠ですが、影で戦下手、遅刻の将軍と揶揄される始末です。
大阪の陣も遅刻しそうになりますが、何とか間に合った秀忠。
生まれた時から、決められたような運命を嫌う2人。
良くも、悪くも、だって父親は、真田昌幸であり徳川家康なのです。
一方は、戦国で名を残す真田丸にて機会を伺い、もう一方は、茶臼山にて待ち構えます。
二人の仔獅子が、人生と誇りを賭けた大阪の地で、相見えるのでした。
戦国の親子関係は、歌舞伎・連獅子に似て厳しい関係
戦国の親子関係は、現代のように愛情表現が豊かではなかったです。
しかし、真田昌幸や徳川家康に愛情が一切無かったとも言えません。
我が子を谷に落とすときの恐怖や切なさ、這い上がった時の喜びは、どれほどのものだったのでしょう。
我が親に谷から落とされたときの恐怖や憎しみ、親の真意がわかったときの喜びは、どれほどのものだったのでしょう。
戦国時代は、非情でなければ生きていけない時代です。
あえて父親が非情な鬼になることで、教えていたのかも知れません。
真田幸村は、父・昌幸が亡くなる時、徳川秀忠は、父・家康が亡くなる時、どのような感情で見送ったのでしょうか。
その逆の父親は、死ぬ間際、何を息子に語ったのでしょうか?
愛情とは、誰にもわからない複雑な感情なのでは!?
そう思わざるを得ない戦国の親子関係でした。