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【真田十勇士は存在していた!?】真田昌幸・幸村が愛した忍者たち

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真田家は忍者を採用したことで有名!

真田忍者という忍者集団が形成されていたことをご存じでしょうか?

忍者といえば、伊賀忍者や甲賀忍者。

或いは徳川軍団の服部半蔵、北条氏の風魔一族などが知られていますが、真田忍者も知る人ぞ知る忍者集団として有名なのです。

かの武田信玄は、忍者集団を組織として編成し、情報戦略に頭一つ抜けていましたが、真田昌幸・幸村も軍神武田信玄を踏襲し、忍者集団を組織化して、数々の戦で大勝利を勝ち取りました。

忍者は、氏素性が隠して、業務についていますが、忍者ではなかったかと言われている人物は、実は沢山います。

この忍者の活躍を描いたのが、真田十勇士です。

真田十勇士は、架空の人物で創作とされていますが、モデルと言われる人物がいます。

謎多き忍者を積極的に登用したとされる真田昌幸・幸村の親子は、どのように戦国時代を駆け抜けたのでしょうか。

真田忍者とは、どのような忍者であったのかを言及しつつ、真田親子の実像に迫ろうと思います。

数多くの合戦で真田の忍者が大暴れ!

真田忍者とは、真田家が登用した忍者集団を指します。

もともと真田家が仕えていた武田信玄の時代から、信玄は甲斐・信濃において多数の素破を用いていました。

また信州には、修験道の聖地として有名な四阿山があります。

伊賀や甲賀と同様に修験道を極める修行僧達から忍術が発展したとされます。

厳しい忍術を体得した忍者が、武田信玄による忍者集団として編成され、忍者が全国で活躍する基盤を作ったと言われています。

信玄の功績によって、当時信州と上州の地に存在していた乱波・素破の数はなんと1000人を超えていたともされています。

その忍者集団を踏襲したのが、真田家です。

真田家は、忍者を積極的に採用し、主な合戦で大活躍を果たすようになったのです。

これが真田忍者の始まりです。

では、文献にも残っている忍者の代表的な人物を簡単に紹介いたします。

・出浦盛清

出浦盛清は、武田家・真田家に仕えた忍者の棟梁とされています。

ちなみに甲州周辺では、忍者のことを透破(すっぱ)と呼びます。

また武田信玄は、この透破を三つの組に編成し、「三つ者」と呼ぶようになりました。

この三つ者は、全国各地で様々な職業に扮して、情報収集や諸国の動向などを調べる諜報員でした。

出浦盛清が三つ者の棟梁として、文献に登場するのは、天正2年(1574年)のことです。

その後、天正8年(1580年)に記された「加沢記」に真田昌幸の与力として、活躍したことが記載されています。

武田氏滅亡後は、織田家臣の森長可、その後に真田昌幸に従属します。

真田昌幸の配下として、小田原攻めにも活躍。

昌幸死後は、真田信之に仕え、家老にまで出世しています。

透破の棟梁として、徹底的な現場主義、完璧主義であったと評されています。

・唐沢玄蕃

唐沢玄蕃は2代目が特に有名です。

初代唐沢玄蕃は、真田昌幸の父・幸隆に仕えたとされています。

2代目唐沢玄蕃は、初名と「於猿(おさる)」とし、唐沢久基と称したとも言われています。

玄蕃の身体能力は、頭抜けており、特に「飛び六法」とも称された跳躍術に長じていました。

その後、真田昌幸に仕えた玄蕃は、出浦盛清の配下となり、割田重勝の娘と結婚しました。

真田昌幸の下、数々の有名な合戦に参加し、優秀な成績を挙げ、忍者としての逸話も多く残している伝説級の忍者なのです。

この2代目唐沢玄蕃が、有名な猿飛佐助のモデルではないかと言われるほどの忍者です。

昌幸の後は、真田信之に仕えています。

群馬県の我妻には、伝説の忍者・唐沢玄蕃の墓が現存しています。

・割田重勝

唐沢玄蕃が真田忍者のヒーローだとしたら、割田重勝は真田忍者のエースといっても過言ではない忍者です。

玄蕃同様、忍者としての才能が際立っており、数多の合戦で大活躍しています。

文献に残っているのは、相手方の馬を盗むといった、およそ真田忍者のエースとしては規模の小さい戦果が目立ちますが、忍者としての実力は相当な腕前であった様子で、棟梁である出浦盛清の右腕として圧倒的な存在感を放っていました。

しかし、関ヶ原の戦い以降、徳川体制となると、平時に忍者は不必要となり、徐々に仕事がなくなり、その日の暮らしにも困窮するようになりました。

大忍者、真田忍者のエースと評された割田重勝の最後は、金に困って、至る所で盗みを働らくという始末。

とうとう、捕えられて処刑されます。

時代に取り残された忍者の末路を具現化した割田重勝の墓も群馬県の我妻に現存しています。

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伝記・真田十勇士の背景

明治・大正の立川文庫から出版された冒険小説で人気を博したのが真田十勇士です。

そして、特に講談で有名になった真田十勇士の冒険譚です。

真田十勇士とは、どんな忍者が活躍したのでしょうか。

真田十勇士のプロフィールを簡単にご紹介いたします。

・猿飛佐助

真田十勇士といえば、この人物といわれる程、有名な人物です。

実在か架空か、怪しい人物ですが、講談や小説では甲賀流の戸沢白雲斎に才能を見出され、開花しました。

15歳で真田幸村に仕え、徳川方を散々に悩ます話は、痛快そのものの。

一部の実在した忍者や西遊記の孫悟空をモデルにした真田十勇士の主人公格の人物です。

・霧隠才蔵

猿飛佐助のライバルとして登場する人物です。

クールに描かれる才蔵も猿飛佐助同様、真田十勇士の主人公格の人物です。

猿飛佐助が甲賀流なのに対比して、霧隠才蔵は伊賀流という設定です。

浅井長政の家臣であった霧隠弾正左衛門の息子であり、伊賀忍者百地三太夫の弟子であるとされています。

・三好清海入道

怪力自慢の大男として描かれている人物です。

出羽国亀田の領主であった過去を持ち、弟である三好伊佐入道と共に真田幸村を盛り立てる役割。

三好三人衆の三好家がモデルとされています。

・三好伊佐入道

三好清海入道の弟。

上田合戦や幸村の九度山行きにも共だった三好兄弟は、義理人情と武士道を貫いた人物です。

兄同様、三好三人衆の三好家がモデルとされています。

・穴山小助

真田幸村の側近という設定。

背格好が真田幸村に似ていることから、影武者として活躍しました。

大阪夏の陣では、真田幸村として、徳川家康の本陣に斬り込み、壮絶な死を遂げたのでした。

本物の真田幸村は、薩摩に落ち延びたという。

・由利鎌之助

鎖鎌と槍の達人として描かれた人物です。

穴山小助と戦い負け、それ以来真田家に仕えた設定です。

幸村が九度山に幽閉中は、江戸で道場を開き、徳川家の動向を調べていたとされています。

・筧十蔵

元は蜂須賀藩家の家臣でしたが、真田幸村の才能に惚れ込み、仕えた人物です。

種子島流の鉄砲術に長け、真田十勇士では異色の存在。

幸村の薩摩落ち延びにも、同行しています。

・海野六郎

真田十勇士でも最古参の人物で、真田幸村の軍師か或いは右腕的な存在です。

幸村の薩摩落ち延びにも、同行しています。

・根津甚八

元海賊のドンです。

九鬼水軍を調査している際に根津甚八と出会って、真田十勇士に引き入れました。

大阪夏の陣では、穴山小助同様、幸村の影武者として、壮絶な討死をしています。

・望月六郎

爆弾作りの名手とされている人物です。

九度山時代では、終始、幸村と寝食を共にした家臣。

大阪夏の陣では、幸村の影武者として大活躍し、壮絶な討死をしています。

▼真田十勇士を題材にした舞台▼

現実と虚構の狭間に生きる真田忍者

真田忍者は、真田家に仕えた実在する集団です。

忍者の棟梁であった出浦盛清や真田忍者のヒーロー唐沢玄蕃、真田忍者のエース割田重勝は、真田家の主だった合戦で大活躍でした。

また、古今東西並ぶべきなしとも言われた唐沢玄蕃の活躍も有名です。

武田信玄が組織化したと言われる忍者集団ですが、その集団を踏襲し、活用したのが、真田昌幸とも言われています。

また、陰・日向となり暗躍する忍者は、後世、小説や講談・ドラマなどで持て囃されるヒーローとなり、憧れの的となったのです。

忍者のヒーローといえば、真田十勇士です。

猿飛佐助や霧隠才蔵は、今だにアニメや漫画、ドラマなどでも主役になるほどの人気振りです。

そんな真田幸村の活躍に一役買った真田十勇士は、虚実ない混ぜ、実存したのではないでしょうか。

クールでカッコイイ忍者像。

色を変え、形を変え、現代に現れたスーパー戦隊の原型が忍者という集団です。

もしかしたら、今日も色を変え、形を変え、現代でも実際に活躍しているかも知れません。

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