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【破門の力士】阿武松!(おうのまつみどりのすけ)

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歴史
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伝説の力士、阿武松の半生!

先日、Netflix「サンクチュアリ(聖域)」が独占配信されていました。

主人公の猿桜(えんおう)は、下品で粗野、野卑の極みのような人物であるが、徐々に人として成長していく物語です。

相手役の静内(しずうち)も良い味を出していて、それぞれの背景があって得も言われぬスケールがあった作品でした。

背景には、社会の底辺やドン底に喘ぐ人間の不遇さや哀れさも読み取れる作品でしたが、江戸時代にも不遇な力士がいました。

力士の名前は阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)。

横綱にもなった江戸時代を代表する名力士です。

この阿武松、落語や講談でも描かれた力士なのです。

落語や講談で描かれた阿武松!

阿武松緑之助は、落語や講談の題材になるほど、人気の力士であり、漫画に登場するようなヒーローでもありました。

また題材になるほど、境遇や性格が、ユニークでユーモラスでもあり、活力を与えてくれるような憧れの対象だった力士なのです。

では、阿武松緑之助とは、どのような人物だったのでしょうか?

落語や講談で描かれている阿武松緑之助は、どのようなキャラクターだったのでしょうか?

簡単にご紹介いたします。

・阿武松緑之助とは

阿武松緑之助は、1791年(寛永3年)に能登で馬子の倅として生まれました。

能登は、現代の石川県であり、馬子とは、馬の背中に乗せて駄賃を貰う輸送業のような職業です。

幼い頃から力自慢であり、力士を目指して上京したと言われています。

身長173cm、体重135kg

江戸時代でも、決して体格に恵まれたというほどでもないでしょう。

性格は、温厚で義理人情に厚かったという。

その性格ゆえか、相撲の取り方は、慎重で作戦を練るタイプ。

「待った!」が多い力士として有名で、当時の江戸庶民の流行語だったようです。

終生のライバル、錦嶋部屋(にしきじまべや)の怪力無双・稲妻雷五郎(いなづまらいごろう)とは鎬を削り、大いに相撲界を沸かしました。

そんな阿武松緑之助。

落語・講談では一度、相撲部屋を破門されています。

・落語・講談での阿武松緑之助

落語・講談では、腹ペコ横綱として登場します。

落語の題名は「阿武松(おうのまつ)」。

京橋の関取、武隈文右衛門(たけくまぶんえもん)を訪ねて、体格が良いってことで無事、武隈部屋に入門した阿武松。

四股名は「小車(おぐるま)」。

新弟子、小車が入門する頃から、どうも米の減りが早くなります。

武隈は、小車を呼び出します。

「出世もしないのに飯ばかり食うそうだな」

「そんな奴は、この部屋にいらねぇ!」

とうとう破門され、途方にくれる小車。

自殺を考え、その前に食い納めをしてから死のうと決意します。

少しばかりの金を手に握りしめ、橘屋善兵衛の旅籠で存分に飯を食い尽くします。

あまりの食いっぷりに感心し、すっかり小車を気に入った善兵衛。

錣山親方(しころやまおやかた)を紹介してくれ、毎月五斗俵二袋分差し入れてくれるという。

この恩に報いるべく稽古に熱が入る小車改め小緑(こみどり)。

熱を震わせた小緑、念願の入幕を果たします。

四股名を小柳に改め、迎えた蔵前八幡の大相撲。

初日から連勝続きの小柳に、とうとう4日目の対戦相手は、あの武隈文右衛門。

小柳の目に闘志が、心に炎が宿ります。

積年の恨みか。

報いる恩か。

小柳、大一番の勝負がいま始まります。

阿武松と長州藩とのかかわりとは?

萩藩主の毛利斉熙(もうり なりひろ)は、大層な相撲好きとして知られていました。

お抱えの力士が多く、中には龍門好五郎(りゅうもん よしごろう)という、身長が7尺4 寸5分(約226センチメートル)もある巨漢力士も抱えていたほどです。

特に阿武松は、斉熙に大層気に入られた力士でした。

阿武松と斉熙には、こんな逸話が残っています。

・毛利斉熙、阿武松に改名させる

阿武松の四股名は、小柳でしたが、毛利斉熙の命で改名します。

萩の阿武の松原にちなんだ名である「阿武松」となるのです。

ちなみに阿武の松原は、萩市でも景勝地として有名な場所であったそうです。

阿武松となった小柳は、文政11(1828)年に、31年ぶりの横綱となったのです。

江戸時代の横綱は、現在のような最高位の番付ではなく、最も実力があったのは大関でした。

横綱は、いわば名誉職といった意味合いで用いられる番付であり、特に大関でも認められた力士だけが就任できる番付なのです。

相撲界が阿武松を認めたといったところでしょうか。

あの出世ができない飯ぐらい、破門の力士が相撲界に認められたという訳です。

・毛利斉熙と阿武松の大一番

ある日、江戸にある萩藩の屋敷を訪ねた阿武松。

ひょんなことから毛利斉熙と相撲を取ることになるのです。

そこで斉熙が阿武松の耳元で「百両、百両」と囁き始めます。

てっきり百両くれるものと信じた阿武松は、勝ちを斉熙に譲ります。

しかし、待てど暮らせど百両くれる素振りを見せない斉熙に業を煮やした阿武松は、おずおずと切り出します。

そこで斉熙は、こう切り返します。

「あれは百両という技であった」

破門の力士・阿武松緑之助

阿武松は、江戸時代の力士です。

落語や講談でも、実際の人生も、その背景にあるのは、貧困です。

貧困を力にして、魂を震わせて、戦うしかなかった人間のストーリーです。

数十年前の日本では、世界やドラマ、映画で描かれている貧困は、どこか違う世界の絵空事でした。

しかし、今の日本では、すぐ近くに起きている自分ごとのストーリです。

世界は変わらないけども、泥にまみえなければ世界も変わらない。

そんな事を考えさせられる人物なのでは、ないでしょうか。

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