「戦国時代の外交や戦略をもっと知りたい方へ」

目次
織田信長と上杉謙信が同盟を結んでいたら?

戦国時代の日本には、多くの名将が存在しました。
その中でも圧倒的なカリスマ性を持つ織田信長。
戦の天才と称された上杉謙信。
この二人がもし同盟を結んでいたら、日本の歴史はどのように変わったのでしょうか?
本能寺の変で命を落とした信長は、明智光秀の裏切りによってその野望を断たれました。
しかし、もし上杉謙信と手を組んでいたとしたら、本能寺の変は防げたのでしょうか?
そして、その後の日本はどんな未来を迎えていたのでしょう?
今回は「織田信長と上杉謙信がもし同盟を結んでいたら?」という歴史のIF(もしも)の世界を深掘りし、戦国時代の可能性を探っていきます。


織田信長と上杉謙信の関係性とは?
織田信長と上杉謙信の間には直接的な敵対関係は当初ありませんでした。
むしろ、信長は謙信のことをかなり評価しており、謙信も信長に対して一定の敬意を持っていたとされています。
いわゆる「濃越同盟」というやつです。
しかし、この「濃越同盟」も破綻をきたします。
この章では
濃越同盟とは?
破綻をきたした理由および織田信長と上杉謙信の有名な戦いについてお伝えいたします。
濃越同盟とは?
信長と謙信の関係性を語る上で欠かせないのが「濃越同盟(のうえつどうめい)」です。
これは、織田信長と上杉謙信の間で結ばれた外交的な協力関係を指します。
濃越同盟が成立した背景には、当時の戦国情勢が大きく関係しています。
当時、信長は西へと勢力を拡大しつつあり、一方の謙信は関東や北陸方面での戦いに忙殺されていました。
そのため、互いに不要な争いを避け、戦略的に協力関係を結ぶことが最善の選択肢だったのです。
この同盟の主な目的は、共通の敵である武田信玄や北条氏への対抗でした。
信長は武田氏の脅威を排除するために上杉氏の協力を求め、一方の謙信も信長との協力によって関東への影響力を強めることを狙っていました。
また、濃越同盟の証として、信長は謙信に対して親書を送り、さらに名馬などの贈り物を献上したとされています。
このようなやり取りを通じて、二人の間には一定の信頼関係が築かれていたのです。
この同盟がより強固なものとなっていた場合、単なる外交的な協力にとどまらず、軍事的な連携まで発展していた可能性もあります。
その場合、後の戦国時代の展開も大きく変わっていたことでしょう。
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濃越同盟が破綻をきたした理由
しかし、この濃越同盟は長く続きませんでした。
その理由はいくつかあります。
- 謙信の急死
1578年、上杉謙信が急死したことで、同盟は実質的に消滅しました。
謙信の後継争い(御館の乱)が勃発し、上杉家は内乱状態に陥ります。
そのため、信長との協力どころではなくなってしまいました。 - 武田氏の衰退
信長と謙信の共通の敵であった武田信玄は1573年に死去し、その後、武田家自体が衰退していきます。
結果的に、信長と上杉家が連携する必要性が薄れたのです。 - 信長の北陸侵攻
信長はその後、上杉領である北陸地方にも勢力を拡大していきます。
これにより、上杉家との関係は次第に対立へと向かっていきました。
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織田信長と上杉謙信の有名な戦い
濃越同盟が破綻した後、信長と上杉家は敵対関係に突入しました。
その中で特に有名なのが 「手取川の戦い」 です。
手取川の戦い(1577年)
この戦いは、信長の家臣・柴田勝家率いる織田軍と、上杉謙信率いる上杉軍が激突した戦いです。
信長が越前方面へ勢力を伸ばす中、謙信はこれに対抗して進軍。
結果、謙信が織田軍を大敗させました。
この戦いは謙信の戦上手ぶりを示す代表的な戦いの一つとされており
「信長を打ち破った男」
としての評価を確立する出来事となったのです。
もし同盟を継続していたら本能寺の変は起こらなかった?

本能寺の変が起こった最大の理由は、信長の急激な勢力拡大による「恐怖」でした。
明智光秀を含め、多くの武将が「このままでは信長に全てを奪われる」と考えていたのです。
しかし、もし信長と謙信が手を組んでいたらどうでしょう?
上杉謙信は、戦国時代屈指の戦上手であり、武田信玄と何度も戦を繰り広げた名将です。
そんな謙信が信長の味方に付いていたら、明智光秀も軽々しく裏切ることはできなかったかもしれません。
また、信長が謙信と協力することで、北の守りを固めることができ、光秀の謀反を事前に察知しやすくなった可能性もあります。
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上杉・織田同盟が成立していた場合の歴史の展開
「濃越同盟」は単なる外交上の手段でした。
挨拶程度の外交といっても良いかも知れません。
もし、この「濃越同盟」が
織田信長と徳川家康の同盟のような強固な同盟となった場合
歴史は、どのような展開になったのでしょう。
いくつか考察してみました。
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1. 明智光秀の謀反が防がれる
信長と謙信が手を組んでいた場合、信長の勢力はより安定し、明智光秀が裏切るリスクが減少します。
また、謙信の存在が抑止力となり、本能寺の変は未然に防がれた可能性が高いです。
もし本能寺の変が起こったら
即座に明智光秀を討伐できる可能性が高い人物が天下統一を果たせる人物です。
そのことを踏まえると
上杉謙信による上杉幕府ができたのではないでしょうか。
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2. 織田政権の確立
本能寺の変が防がれた場合、信長はさらに天下統一へと突き進みます。
上杉謙信と協力することで、北条氏や武田氏の残党を効率的に討伐でき、織田政権の確立が早まるかもしれません。
しかし、上杉謙信と織田信長の思想の違いや確執は出たでしょう。
結果的に
天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いの主人公は
織田信長の西軍
対
上杉謙信の東軍
になったかも知れません。
3. 豊臣秀吉の台頭はなかった?
信長が生きていた場合、豊臣秀吉が天下人となる未来はなかった可能性は限りなくゼロだったことでしょう。
秀吉は本能寺の変後に急速に台頭した武将であり、信長が存命であれば彼の出世も限定的です。
秀吉は、九州一帯の大大名ぐらいに留まっていたかも知れません。
あるいは
秀吉が敢行した朝鮮出兵を信長が遂行し、朝鮮出兵の取り締まり役のような立場になったかも知れません。
4. 江戸時代の成立が早まる?
信長が天下を統一し、謙信がその補佐役のような立場になれば、戦国時代の終焉はより早まった可能性があります。
結果として、徳川家康が天下を取るよりも前に、異なる形での幕府が成立したかもしれません。
しかし
徳川家康の凄さは、目的を果たすまでの辛抱強さです。
政権を奪取するための権謀術数も長けており、何より健康に気をつけて長寿であったことです。
そのことを考えると
異なる形での幕府が成立したとして
大阪の陣は
織田信忠あるいは上杉景勝
対
徳川家康
になったかも知れません。
自分なりの歴史のIFを考えてみよう!

もし織田信長と上杉謙信が同盟を結んでいたら、本能寺の変は防がれ、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
信長はより早く天下を統一し、戦国時代の終焉が早まる可能性がありました。
また、豊臣秀吉の台頭がなければ、徳川家康が天下を取ることもなかったかもしれません。
歴史に「もしも」はありませんが、こうした仮説を考えることで、戦国時代の魅力をより深く味わうことができます。
ぜひ、今回の考察をもとに、あなた自身の歴史IFを考えてみてください!
きっと、もっと、歴史が好きになることでしょう。