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豊臣氏滅亡は大野治長が原因にされる理由
大阪の陣といえば、真田幸村や後藤又兵衛の大活躍。
あるいは淀君や豊臣秀頼の悲劇などにスポットがあたる合戦です。
しかも、戦国期最後の戦いとして、これ以降、徳川体制が確立された戦いでもあります。
その戦いの中で、大阪方の融通が利かない家臣、時代を読めない家臣といえば、大野治長という名前が挙がるでしょう。
また、大野治長を演じる役者は、美男子が多いのが特徴です。
豊臣氏を滅亡に追い込んだ無能な家臣。
淀君との不適切な関係から豊臣秀頼の父親ではないかと噂される程のイケメン。
権威を笠に来て、牢人衆と亀裂を生じさせた人物。
その辺りが大野治長のイメージでしょう。
本当の大野治長とは、どういった人物であったのでしょう。
また、大野治長にまつわる噂や豊臣氏滅亡に至る原因は、全て彼の責任であったのでしょうか。
時代の変換期のキーポイントとなった大阪の陣で、大野治長は、どのような役回りだったのか、ご一考していただけると幸いです。
原因1:大野治長不倫説
大野治長には、当時から噂がありました。
淀君の信任が厚く、その信任の厚さから周囲の武将から淀君との関係を疑われるようになりました。
その結果、豊臣秀頼の父親ではないかと噂が流れるようになりました。
ここでは大野治長の簡単なプロフィールと豊臣秀頼が息子と言われる理由などをお伝えいたします。
・大野治長のプロフィール
大野修理(おおのしゅり)という名前の方が有名な大野治長。
生まれ年や前半生の経歴は不明です。
年齢は、淀殿と同じ歳か一つ二つ歳上か一つ二つ年下でしょうか。
大野治長の母親である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が淀殿の乳母をしていた関係で、淀殿と行動を共にする人生でした。
父親は大野定長、弟には、大阪の陣で活躍した大野治房がいます。
しかし、大野一族は、母親である大蔵卿局の経歴以外は、出自や経歴などがハッキリしていない一族です。
つまり、どこの馬の骨かが分からない人物。
それが大野治長です。
この出自や経歴がハッキリしていないことから、後々の失政の原因・豊臣氏滅亡を全て担ったとされたのかも知れません。
母親や淀殿が豊臣家に近しい存在であった為、秀吉の馬廻役として出仕したと言われています。
大野治長が頭角を表すのは、秀吉死後の頃、豊臣秀頼の警護二番衆の隊長になった時です。
しかし、徳川家康暗殺計画の容疑にかけられ、下野国結城に追放となります。
翌年、石田三成が挙兵すると徳川家康から赦免され、関ヶ原の戦いでは東軍に与しています。
その後、再び豊臣秀頼に仕えるようになると、秀頼の重臣として活躍します。
1614年、方広寺鐘銘事件が起こり、豊臣家家老であった片桐且元が失脚すると、豊臣家の大黒柱として舵取りをします。
豊臣家第一の人間であることは間違いなく「大阪冬の陣」では、徳川家との和議交渉に尽力しています。
また「大阪夏の陣」では、家康の孫である千姫の脱出させ、千姫から淀君・秀頼の助命を願えでるように指示します。
孫の願いを聞き入れたい家康ですが、判断に迷った家康は、最後は息子である秀忠に判断を委ねます。
最後は、秀忠の判断で千姫の嘆願を却下。
燃えさかる天下の名城・大阪城の中、淀君と豊臣秀頼母子と共に自害して果てたのでした。
・豊臣秀頼が息子と言われる理由
大野治長と言うと、淀殿と不義密通をし、息子は豊臣秀頼であると言った噂が当時から囁かれていました。
豊臣秀頼が息子と言われる理由は
- 淀殿とは母親が乳母であった関係上、幼い頃から顔見知りであった
- 大野治長は、妻が大層な美人であった頃から治長自身も美男子で高身長であったはず
- 豊臣秀吉と秀頼の身長差や体格が違いすぎる
- 秀頼が生まれた時期に大野治長がどこにいったのか不明である
どの理由も確証がある理由ではないですが、大野治長が淀殿・秀頼を献身的に側に仕えたことが伺いしれます。
その結果、不義密通をした愛人として、後世、名前を覚えられるようになります。
何とも不名誉な結果になるとは本人も残念な気持ちであったことでしょう。
原因2:牢人衆との対立
大野治長は、大阪の陣の戦略立案の会議で、牢人衆が積極的に徳川勢へ撃ってでようと主張するも一蹴し、籠城戦を決行したと言われています。
そのことから、牢人衆の献策を無視し、絶好のチャンスを失った無能の指揮官。
牢人衆との対立を作った張本人。
全ての敗因は、大野治長にあるとまで言われています。
しかし、大野治長の籠城策は、彼自身の主張というよりも、豊臣首脳陣の既定路線であったようです。
首脳陣が籠城策に固執した理由は
- 軍資金が豊富にあった
- 兵糧に余裕があり二年ほどは籠城できる
- 豊臣秀吉が造った難攻不落の名城・大阪城への絶対的自信
- 二年ほど持ち堪えれば、豊臣恩顧の大名が味方するという思惑
かつての小田原城での北条氏のごとく、高を括っていたのかも知れません。
或いは、豊臣家首脳陣は時代を読み違えていたのかも知れません。
それを代弁しただけの大野治長ですが、豊臣家を守るためには汚名も辞さずといった心持ちだったのでしょうか。
ここで大阪の陣に参戦した代表的な牢人をご紹介します。
戦国時代最後の合戦で大いに活躍した武将です。
武将 | 説明 |
長宗我部盛親 | 長宗我部元親の息子・関ヶ原の戦いでは良いところなく土佐国を没収。一時は寺子屋の先生をしていたとも言われる。 |
真田幸村 | 真田信繁とも。真田昌幸の次男坊であり、父親譲りの知略で徳川勢を大いに翻弄。大阪の陣では特に真田丸が有名。最後は徳川家康に肉薄するも討死。 |
毛利勝永 | 羽柴秀吉の頃の古参家臣の息子。大阪冬の陣では目立った活躍はしてないが、夏の陣では真田幸村を凌ぐほどの活躍をした隠れた武将。最後は豊臣秀頼の介錯をし、自身は自害したと伝わる。 |
明石全登 | 全登をてるずみとする説とじゅすととする説もあるキリシタン大名。宇喜田秀家に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍で従軍。大阪の陣では、大勢のキリシタンと共に参戦。大阪夏の陣後、消息不明。 |
後藤又兵衛 | 正式名は後藤基次。黒田家の重臣として数々の合戦を体験した歴戦の強者。黒田長政との確執から牢人に。最後の花道として大阪の陣を選ぶ。大阪夏の陣・道明寺の戦いで討死。 |
大野治房 | 大野治長の弟。兄と違って豊臣家の中で武闘派中の武闘派として知られる。本町橋の夜襲では、塙団右衛門とともに奇襲に成功。夏の陣では徳川秀忠本陣に何度も突撃するといった活躍も。最後は自刃したとも逃亡したとも。 |
木村重成 | 豊臣秀頼の乳母の子で、秀頼と同年代ではないかとされている。端正な顔立ちで風格があったそうで徳川家康が死を悼んだといわれる武将。 大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで、激闘の末、討死。 |
世に言う「大阪七人衆」と呼ばれる戦国期最後の武将です。
牢人衆の活躍だけが目立つ大阪の陣ですが、豊臣家にも活躍した武将がいます。
最後は討死や自害、消息不明など様々ですが、見事な生き様、死に様を見せた武将たちです。
この大阪の陣で、豊臣家が滅亡し、徳川家の天下が盤石となるのでした。
▼真田幸村記事▼
▼後藤又兵衛記事▼
原因3:大阪城の堀埋め立て事件
大阪冬の陣は、徳川勢の連日連夜の大砲攻撃により、徳川方・豊臣方の和睦という結末になります。
その和平会議において、徳川方は大坂城は本丸のみの堀を残して、二ノ丸・三ノ丸の掘を破却することが、総堀を埋め立てることを約束させます。
二ノ丸、三ノ丸の堀破却の担当は、大阪方が受け持つのですが、なかなか着手しないので、徳川方が短期間で埋めてしまいます。
大阪方は、堀の埋立てに時間をかけたかったのでしょう。
そうすれば、家康の寿命が尽きるではと思ったのかも知れません。
この堀の埋立てが致命的となり、難攻不落の大阪城は裸同然となり、籠城戦は意味のないものとなります。
その後、大阪夏の陣では、絶望的な野戦に討ってでるしかありませんでした。
そうして、豊臣氏は滅亡するのですが、その原因の全てを大野治長が無能であったからとするには無理のある原因ではないでしょうか。
実際、豊臣家を存続するために大野治長は奔走するのですが、共に和平交渉に携わっていた織田有楽の逃走により、上手く交渉が出来なかったのです。
豊臣氏滅亡の原因は
- 遅すぎる豊臣秀頼の誕生による、秀頼自身の力不足
- 豊臣氏の威厳やプライドを過剰に意識しすぎた淀君と秀頼
- 籠城戦を徹底できなかった豊臣首脳陣
- 一流の交渉役がいなかった豊臣方の人材不足
- 武力が牢人衆で形成されていたことによるリーダーシップ不足
大野治長一人で仕切るには、力不足ではあったでしょうが、決して大野治長が無能で無知な人間とし、豊臣氏滅亡の張本人ではなかったように思います。
再評価される大野治長の人物像
大野治長は、誰かに必要とされる人間であったのでしょう。
その必要に必死に応えようとしたのですが、時代が許してくれなかった。
そんな悲哀を感じる人物でもあるのです。
確かに大野治長は、戦国時代では突出したような才能があったかと言われれば疑問が残りますが、任された責任感を果たそうとした誠実な人物ではあったのでしょう。
時代が徳川の世になった時、大阪の陣の原因を全て、大野治長に求めました。
その原因は
- 淀君と愛人関係にあり、豊臣秀頼の父親は、大野治長である
- 牢人衆の意見を聞き入れず、籠城戦という愚策を決行した人物
- 堀の埋立てを傍観した交渉下手な人物
江戸時代と言えど、豊臣秀頼を悪くいうことは、豊臣恩顧の大名も存続していることから、誰かに責任を求めたのです。
豊臣氏滅亡の戦犯を大野治長にすることで、矛先を向けたかったのでしょう。
そう言った意味では、真の豊臣氏の忠臣は、大野治長とも取れます。
全ての悪評や責任を一身に背負った大野治長。
これも時代を生きた男の生き様なのではないでしょうか。
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