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【豊臣秀吉にも四天王が存在した!】徳川四天王に対抗した羽柴四天王

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歴史
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優秀な部下を称える名称の数々

今も昔も優秀な人間、優秀な部下、最強な者を称えて、四天王などと申します。

他にも、五大老や三英傑、七本槍、十六神将、二十四将。

苗字や名前から毛利両川(もうりりょうせん)、両兵衛(りょうべえ)など、枚挙に暇がありません。

その中でも、特に有名なのが「徳川四天王」。

小説、ドラマ、映画やアニメなど、彼らの武勇伝も枚挙に暇がありません。

この四天王ですが、豊臣秀吉にも四天王が存在したのです。

その名も「羽柴四天王」。

あまりにも有名な「徳川四天王」に比べて、知名度が低い「羽柴四天王」ですが、どのような人物が名を連ねているのでしょうか。

豊臣秀吉といえば、黒田官兵衛や加藤清正など、ほかにも優秀な部下を沢山抱えていますが、羽柴四天王も優秀な部下であったのか。

この興味の尽きない「羽柴四天王」の行末について、言及していきます。

四天王とは

現代では、その世界で最強の者達を、四天王と称することが多いのですが、もともと四天王とは、どういった意味なのでしょうか。

四天王とは、東西南北を守護する神様の総称のことですが、甲冑を見に纏い、勇ましい武将姿で天界を護っています。

日本では飛鳥時代に、聖徳太子蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)との戦に勝つことを祈願して四天王を祀り、その後、四天王寺を建立したと言われています。

その後、特に武勇に優れた部下のことを四天王と呼ばれるようになります。

戦国期では、徳川四天王の他に、織田四天王(柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀)上杉四天王(宇佐美定満、直江景綱、柿崎景家、甘粕景持)などが有名です。

上杉謙信自体は、毘沙門天の化身と称していますので、上杉四天王と称されると破綻している感じはあるのですが。

そして羽柴四天王ですが、豊臣秀吉の四天王といえば、大阪の陣で活躍した豊臣方四天王(真田幸村、木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親)が有名です。

では、羽柴四天王とは、どのような人物が挙げられているのか、見ていきます。

・羽柴四天王

羽柴四天王とは、豊臣秀吉が羽柴秀吉と名乗っていた頃、つまり草創期の頃に活躍した4人のことです。

秀吉が長浜城の一国一城の主人になった頃に仕えた人物で、それぞれ250貫の知行を与えられ、中国征伐の頃には、大成して5000石の知行となりました。

羽柴四天王のそれぞれを簡単に紹介します。

・宮田光次(みやたみつつぐ)

羽柴四天王の中で、初めに退場する人物です。

武功第一の人物として、秀吉に評価されていました。

織田信長から中国方面の総司令官に任命された秀吉は、播州征伐を敢行し、手始めに三木城を攻めます。

播州随一の堅城として知られる三木城の攻防戦は、後に「三木合戦」や「三木の干殺し」として知られる戦いとなりました。

その三木城合戦で、宮田光次は討死しています。

数年後、竹中半兵衛が、彼の武勇を惜しみ、今の羽柴軍は宮田光次がいた頃よりも劣っていると嘆いたとされる逸話も残っているほどです。

・戸田勝隆(とだかつたか)

宮田光次とは逆に、四天王の中で、最後に退場する人物です。

戸田勝隆は、三木城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手合戦、四国攻めなどで活躍し、順調に出世街道を進み、伊予の大洲7万石の大名にまで昇りつめました。

しかし、朝鮮出兵の帰路の際、病死してしまいます。

勝隆には子供がいないため、改易となり、戸田領は、藤堂高虎の領土となるのでした。

かつて戸田勝隆には、息子がいたのですが、鷹狩の途中に息子が誤って、刃物をいじり、そのまま帰らぬ人となりました。

訃報を聞いた勝隆は、その程度で死ぬようでは戦では役に立たないと言い、鷹狩を続行したというエピソードがあります。

もし息子がいたら、後々までも語り継がれる大大名の家柄になっていたのかも知れません。

・尾藤知宣(びとうとものぶ)

もともと森長可の配下であった尾藤知宣ですが、秀吉が長浜城主となった頃に家臣となります。

知宣も戸田勝隆同様、三木城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手合戦、四国攻めなどで活躍し、讃岐国宇多津5万石の大名と順調に出世しています。

しかし風向きが変わるのが、九州平定の失態です。

前任者の仙石秀久が九州平定で大失敗をし、追放されているので、慎重になりすぎた尾藤知宣は、追い詰めた島津勢を取り逃すという失態をするのです。

この行動に秀吉から臆病者の誹りを受け、領地召し上げ、追放という重い処置をくだされます。

追放後は、北条氏に仕えるのですが、運悪く、秀吉による北条攻めがおこなわれます。

北条氏が負け、行き場を失った尾藤知宣は、秀吉に面会を求め、許しを請うたのですが手討ちにあいます。

昔からの知り合いだから許してもらえるとタカを括っていた知宣の浅はかな考えと勝敗が決まってからノコノコと現れたことが、よほど気に入らなかったようです。

・神子田正治(みこだまさはる)

最後は羽柴四天王のリーダー格である神子田正治です。

正治は、もともとは織田家の家臣でしたが、秀吉の請われて家臣となった人物です。

彼の実績や成果、軍略眼、臨機応変さは、あの竹中半兵衛が自分の後釜に添えたいと言ったとされる程の有望格でした。

しかし、元来の皮肉屋で、たびたび羽柴秀吉を見下す態度が目に余る不遜な人物でもありました。

順調に軍功を上げ、播磨広瀬城主になり1万2000石に加増されるのですが、ここで事件が起こります。

徳川家康との合戦である小牧・長久手の戦いで、神子田正治の態度が秀吉を怒らせます。

小牧・長久手の敗戦で、殿軍を率いた神子田正治が職務を全うせず、逃げ回っているのを見た秀吉。

そのことを、秀吉が注意すると、正治は反論をし、ついには口喧嘩・罵り合いとなるのです。

日頃の見下した態度もあわさって、余程腹に据えかねたのか、神子田正治を家族諸共、高野山に追放します。

それに飽き足らず、神子田をかくまったものは同罪とする書状まで出す始末です。

後年、貧困に窮した神子田正治は、秀吉の下に許しを請いに赴きますが、打ち首の処分。

豊臣秀吉は、相当、見下されたことを恨んでいたのでしょう。

その首は、京都一条戻り橋に晒されたと言います。

・徳川四天王との比較

羽柴四天王の共通点は

・羽柴秀吉を名乗っていた頃に仕えた人物で、織田家から羽柴家の家臣になった

・羽柴から豊臣になる頃には、あまり目立たない存在となった

・秀吉へのリスペクトがあまり感じられなく、一人はバカにしている

・秀吉が亡くなっている頃には、全員亡くなっている

などが挙げられます。

一方、徳川四天王と呼ばれる酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政

・徳川家康への忠誠心・愛情・尊敬の念が圧倒的

・天下統一後も藩が存続している

・家康が小大名の頃から大大名、大御所になっても忠誠心は変わらない

・四人とも知略・武勇に優れている

など、数えたらキリがないほどの名声です。

徳川四天王は、羽柴四天王と比較にならないほどの結束力と武勇で、劣勢であった小牧・長久手の戦いに勝利するのです。

▼豊臣秀吉が唯一愛した息子の記事

羽柴四天王 VS 徳川四天王の小牧・長久手の戦い!

羽柴四天王の中で、宮田光次は、三木合戦で討死していますが、他の四天王はどのような働きをしたのでしょうか。

残念ながら、神子田正治が殿軍を務め、織田信雄軍と戦ったこと以外は、目覚ましい活躍は聞こえてきません。

しかし、徳川四天王は、小牧・長久手の戦いで目覚ましい活躍をするのです。

家臣の違いが小牧・長久手の勝敗を喫したのか。

徳川家康は、豊臣秀吉よりも優っていたのか。

ここで、小牧・長久手の戦いとは、どのような戦いだったのか、少しおさらいをしていきます。

・小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いのキッカケは、織田信長亡き後の織田家を誰が相続するのかといった相続争いです。

明智光秀を山﨑の戦いで屠り、織田家の筆頭となった豊臣秀吉に対して、次第に警戒心を強めた織田信雄は、徳川家康に援護を求めます。

そんな中、とうとう織田信雄を安土城から追い出した豊臣秀吉と織田信雄側の徳川家康と相見えるのが、小牧・長久手の戦いです。

織田信雄・徳川家康連合軍1万7000人。

対して豊臣秀吉軍は、10万の大軍です。

この圧倒的な兵力差を背景に、池田恒興の奇襲により、犬山城を占拠する豊臣軍。

対する織田・徳川連合軍は、小牧山城に陣を張り、両者睨み合いのこう着状態が続く長期戦となりました。

こう着状態を打破すべく、池田恒興が家康の本拠地である岡崎城を奇襲するという作戦を敢行するも家康に見抜かれ、榊原康政の大活躍で、豊臣軍は壊滅的な打撃を受けます。

結果、徳川四天王の活躍もあり、織田・徳川連合軍の大勝利に終わりますが、織田信雄が独断で豊臣秀吉と和平を結び、徳川家康は撤退を余儀なくされたのでした。

小牧・長久手の戦いは、戦術的には徳川家康の勝利であり、戦略的には豊臣秀吉の勝利という複雑な戦いとなりました。

しかし、徳川家康は、この小牧・長久手に戦いの勝利により、豊臣秀吉に一目も二目も置かれる存在になったことを考えると、一つのターニングポイントにもなった戦でもあったのです。

▼小牧・長久手の戦いにも参加した女軍師の記事は▼

・アンダードック感のある羽柴四天王

羽柴四天王に挙げられた4人は、山鹿素行が著した「武家事紀」という書物に登場する人物です。

その武家事紀では、羽柴四天王という名称ではなかったのですが、いつの頃からか4人の武将のことを四天王と呼ぶようになりました。

しかし、後世に語られるほどの活躍を見せていない羽柴四天王。

徳川四天王と比べて、あまりにも無名であり、小物感は拭えません。

これは山鹿素行自身が、江戸初期の人物であり、豊臣秀吉は天下の悪者という風潮の中、生きた人物であることにも起因しているかと思われます。

豊臣秀吉の人望の無さや無慈悲さ、あまり活躍を見せずに秀吉をバカにする部下を四天王とすることで、徳川家康と徳川四天王の優秀さや凄さを際立たせたかったのでしょう。

それと豊臣秀吉の優秀な部下であった蜂須賀小六竹中半兵衛黒田官兵衛などを羽柴四天王とすると、それぞれ大名になっていることもあり、都合も悪かったというのもあるでしょう。

太平の御代を作り上げた徳川家康は神君、それに付き従った四天王は名将でなければならないので、羽柴四天王は、かませ犬でなければならなかったのです。

・戦いに負けて城で勝つ!犬山の魅力

小牧・長久手の戦いの舞台になった犬山城は、国宝に指定されている風光明媚な名城でもあります。

犬山城天守閣から見る木曽川は、絶景そのものであり、かの豊臣秀吉も、この絶景を見たのかと思うと歴史のロマンを感ぜずには入られません。

犬山には、国宝犬山城の他にも、国宝茶室如庵もあり、有形・無形文化財の宝庫でもあります。

また、博物館明治村や野外民族博物館リトルワールドなど、テーマパークとしても親しまれています

名古屋市にも30〜50分程度のアクセスの良さなども魅力的な街です。

豊かな自然と歴史、文化とアミューズメント、何度も訪れたく街

それが犬山の魅力なのです

部下の接し方にみる豊臣秀吉と徳川家康の違い

豊臣秀吉と徳川家康の違いは、百姓の出か、武家の出かによる、美徳や価値観の違いによるところが多いとする向きもあります。

しかし、両者の大きな違いは、部下に対する接し方が大きく異なっているところではないでしょうか。

あるいは、部下に対する愛情といった言葉が似合っているのかも知れません。

豊臣秀吉は、自分の身内に対する愛情が深く、自分に利益をもたらさない他人を憎悪したきらいがあります。

天下統一の立役者であった黒田官兵衛は、秀吉の性情を知っていたので、早々に引退し、小禄でも文句を言いませんでした。

また、危機感を覚えた蜂須賀小六は、与えられた家禄を息子に譲り、自分は秀吉の側から離れないといった方法を取ります。

部下に対する愛情が欠落している人物。

それが豊臣秀吉だったのでしょう。

一方、徳川家康は、家族への愛情は微塵もなく、部下への愛情を注いで結果を求める人物でした。

多少の失敗や離反は許すといった度量を持っていますが、自分の息子などは冷淡そのものでした。

嫡男であった松平信康は、徳川姓を許さず自害に追いやっています。

また、次男であった結城秀康は、三歳になるまで、家康と対面さえしてもらえなかったそうです。

家族に対す愛情が欠落している人物。

それが徳川家康だったのでしょう。

張り付いた笑顔を見せる秀吉は、部下からしたら恐怖そのものです。

また、好好爺のような家康は、部下からしたら安心感そのものです。

しかし、家族にとっては、どちらが魅力的であったのかは、また別の話なのではないでしょうか。

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