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ウィリアム・ウォレスと藤原清衡とは?
革命家とは、既成の社会に矛盾を感じ、武力行使を厭わない思想家であり、活動家です。
時に英雄であり、革新家であり、そしてテロリストでもあります。
その行動や活動の是非は、横に置いておくとして、テレビや映画、小説での彼らの活動は、時に痛快であり、活力を与える人物として描かれます。
革命家の主な思想や活動内容として、民族の解放が挙げられます。
スコットランドの英雄、ウィリアム・ウォレスはスコットランドの解放を目指しました。
藤原清衡は、体に流れる血統から奥州独立を目論みました。
2人の英雄あるいは革命家の人生を深掘りしていこうと思います。
藤原清衡の大いなる野望とは?
藤原清衡は、平安時代末期に活躍した政治家であり、軍事家でもあります。
彼は、中央国家である朝廷に与しながら、大いなる野望を胸に抱いていました。
そこには、清衡の出自が大いに関係してきます。
当時、都である京都と並び称させるほど、文化・経済力を有していた都市である平泉。
中央国家に対抗する為に一流の都市にした目的は、彼の個人的な野心ではなく、蝦夷人の夢であり、悲願なのでした。
・奥州十二年合戦とは
奥州十二年合戦とは「前九年の役」「後三年の役」の二つの戦いを総称した呼び方です。
平安時代初期、朝廷は東北地方までの制圧には成功しますが、蝦夷地と呼ばれる北海道などは手付かずであり、東北地方はまだまだ地盤が万全ではない状態でした。
そこで朝廷は、奥守(むつのかみ)や出羽介(でわのすけ)などの管理職を設置し、東北地方の支配を強めようとします。
前九年の役とは、その管理職であった源氏と陸奥の豪族である安倍氏との戦いです。
途中、敵・味方が入れ替わったりとややこしい戦いですが、結果、安倍氏は滅ぼされ、一躍源氏が朝廷に一目置かれる存在になったのです。
この源氏の活躍がキッカケで、源氏は源頼朝の鎌倉幕府、足利尊氏の室町幕府へと発展するのでした。
そして、後三年の役。
これは、安倍氏が討伐されて、代わって清原氏が台頭します。
この清原氏の内部抗争が発端となり、源義家が干渉したことにより大きい戦いとなったのが、後三年の役です。
結果、清原清衡が戦いに勝利し、名前を藤原清衡に改名します。
これが奥州藤原氏の繁栄につながります。
一番、割りが合わなかったのが源義家。
彼は、後三年の役で清衡の勝利に貢献するも、朝廷から恩賞を貰えず、身銭を切るハメになりました。
ちなみに「役」とは、朝廷が未開の地に生きる民族を征伐するために使われた侮蔑的な用語でもあります。
・藤原清衡の遺したもの
奥州に覇を唱えた安倍氏と清原氏は、複雑な婚姻関係により、親戚同士です。
一説に安倍氏は、蝦夷人であり俘囚長であるとされています。
この安倍氏の血を持つ藤原清衡も俘囚ということになり、彼は蝦夷人であることにプライドを持っていました。
東北を蝦夷人による独立国家を作る。
これが藤原清衡の抱いた野心ではなかったでしょうか。
独立国家を作るためには、とにかく金が必要です。
そして、都に負けないぐらいの文化水準に達していないといけません。
彼は、平泉を一大都市にするために奔走します。
当時、東北地方には、砂金が取れる採掘場が数多くありました。
それと名馬の産地としても有名な場所でした。
これらを活かし、中国との貿易などで莫大な利益を得ることに成功した清衡は、とうとう平泉は黄金都市として、都を遥かに凌ぐ一大都市を築くことになるのです。
「黄金の国ジパング」
かつて「蛮族の地」「未開の地」として、朝廷から蔑まれていた土地を都市にかえたのです。
・中尊寺に見る藤原清衡の願い
藤原清衡が目指した思想が、中尊寺金色堂に現れています。
中尊寺金色堂は、藤原清衡が建立した現存する世界遺産にも登録された文化遺産です。
これは、前九年の役・後三年の役で亡くなった人を弔うために作られたとされています。
藤原清衡が目指したものとは、自らの出自である蝦夷人というアイデンティティを大切しながら、誰も犯されない自由で平和な国を望んだのではと思わずにいられません。
その為に清衡は、奥州を一つにし、経済・文化で侮られないような体制と朝廷の介入されない独立国家を目指したのでしょう。
その後の奥州藤原氏は、約100年間、繁栄を極め、最後は源頼朝によって体制が崩壊するのでした。
かつて奥州藤原氏が栄えた場所である岩手県は、今でも中尊寺や毛越寺(もえつじ)などが数多く残されています。
ウィリアム・ウォレスが目指したものとは?
ウィリアム・ウォレスは、映画にもなったスコットランドの英雄です。
イングランドへの抵抗の背景にウィルアム・ウォレスが目指したものは、スコットランド人の誇りを醸成させるといったものではなかったでしょうか。
スコットランドとは、現代でもイギリスの一都市と誤解されている方もいますが、英国に属している地域です。
かつて「スコットランド王国」として独立を果たしていた立派とした国家であり、スコットランド人はスコットランドに大変な誇りを持っています。
長い闘争の歴史であるスコットランドに一筋の光を与えたのが、ウィリアム・ウォレスなのであります。
彼はケルト民族「スコット族」のプライドとアイデンティティーを持ち合わした、勇敢な英雄なのでした。
・敵役・エドワード1世とは
物語には、敵役が必要です。
この敵役が、強ければ強いほど、憎らしければ憎らしいほど、物語の深みが増すというものです。
トランプのキングとして有名なエドワード1世は、政治・軍事に明るい名君主でした。
エドワード1世は、190cm近くなる大男として知られており、ついた渾名は”Longshanks“(ロングシャンクス)、「長脛王(ちょうけいおう)」。
そして
“Hammer of the Scots“(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。
エドワード1世は、イングランド勢力拡大のため、近隣諸国との戦争に明け暮れる王でもありました。
特にスコットランドの統治は、過激そのものでした。
その悪政に立ち上がったのが、ウィルアム・ウォレスでした。
・エドワード1世に忠誠を誓ったことがないウォレス
スコットランドのとある村でイングランド保安官が殺される事件から始まるウォレスの革命は、民衆の力を借りて、ついにイングランド軍との戦いにまで発展するのでした。
ウォレスは、「スターリングブリッジの戦い」でスコットランド軍の大勝利へ導きます。
この戦いでウォレスは、エドワード1世を本気にさせます。
エドワード1世自ら指揮を執った「フォルカークの戦い」ではイングランド軍に大敗北を喫し、ウォレスはかろうじて脱出します。
その後、杳として行方の分からないウォレスに剛を煮やしたエドワード1世は、柵を弄し、ウォレスの部下を裏切らせ、ついにウォレスを捕まえます。
捕まったウォレスは、エドワード1世の大逆罪の罪で裁判にかけられます。
そこでウィリアム・ウォレスは、このように主張します。
「自分は生涯でエドワード1世に一度も忠誠を誓ったことがないので大逆罪にあたらない」と。
それを聞いたイングランド国民は、烈火の如く怒り狂い、大逆罪の有罪という結末。
ウォレスは、最も酷い方法で処刑されるのでした。
スコットランドの首都エジンバラでは、スコットランド人の象徴としてウィリアム・ウォレスの銅像が建てられています。
まとめ:ウィリアム・ウォレスと藤原清衡の共通点は?
2人に共通する点は、どちらも民族に対する誇りです。
民族の誇りの為には、戦いも厭わないといった心持ちは、時に過激であり、時に頼れるリーダーでした。
そして、もう一つの2人の共通点は、自然豊かな土地に恵まれたところでしょう。
一方はウイスキーの名産地として知られる土地。
もう一方は日本酒の銘醸地として有名な土地。
どちらも冷涼であり、四方を山で囲まれた天然の要塞です。
2人とも土地を活かした戦略・戦術を展開したところも共通点といえるでしょう。
このように2人の共通点は、お互いに民族に対する誇りを持ち、自然という天然の要塞を味方につけて戦った民族のヒーローであったところが似ている点といえます。
お互いの最後は違う形でしたが、後世に語り継がれるような英雄であり、それぞれの民族の心の革命家であったことは間違いのない事実なのです。