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陶晴賢で立ち位置を認識するとは?毛利元就との関係性で考えてみる

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歴史
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\毛利元就の本は

\戦国ゲームで 陶晴賢探し!/


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いざ下剋上!陶晴賢は悪人なのか?

下剋上といえば、どの歴史上の人物をイメージしますか?

斎藤道三

松永久秀

宇喜田直家など

極悪人のイメージが強いのではないでしょうか。

あるいは

明智光秀のように、理知的な人間が主君の横暴に耐えかねてクーデターを起こすといったイメージでしょうか。

中国地方でも下剋上は起こりました。

中心人物は陶晴賢という人物です。

主君・大内義隆をクーデターによって自決させた人物です。

彼は奸雄というイメージもありますが、これは後世に作られた虚像です。

実際の陶晴賢は、どのような人物だったのでしょうか。

そして陶晴賢は、どうして毛利元就に敗れたのでしょうか。

今回の記事は、陶晴賢という人物から立ち位置の重要性について私見を交えて言及します。

陶晴賢と毛利元就の関係性や両者の決定的な違いについても言及しております。

あまり注目されない毛利元就や中国地方の覇権事情の参考になるのではないでしょうか。

陶晴賢とはどのような意味ですか?

陶晴賢は下剋上を果たした男です。

これは紛れも無い事実です。

しかし実像は後世で語られるほど残虐非道、出世欲の塊のような男ではございません。

個人的には、立ち位置の認識にズレがあった男かと思っています。

では、どのような部分が立ち位置を見失っていたのか。

よく認識にズレがある3つのタイプ

  • 希望を押し付けるタイプ
  • 主君(会社)は絶対と思うタイプ
  • 自己評価が高いタイプ

この3タイプを陶晴賢の人生に照らし合わせて言及していこうと思います。

だから

陶晴賢は自滅した!

だから

陶晴賢の印象は悪くなった!

のか

少し理解できるかも知れません。

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希望を押し付けるタイプ

自分の希望ばかりを押し付けるタイプは、自分の実力と社会の評価にズレがある方は多いです。

たしかに自己主張ばかりする方は嫌われますよね。

そのタイプが陶晴賢です。

陶晴賢は中国と北九州の7カ国大大名・大内氏の重臣である陶氏の次男として生まれました。

大内氏の当主は、西国随一の戦国大名にした大内義隆。

ちなみに大内氏は渡来人(中国・朝鮮から移住した人)を自称する家系でした。

長宗我部氏も同様に中国から渡った家系を自称していますので、ある種のステータスであったのかも知れません。

話は大内義隆に戻りますが、この義隆ですが無類の男好きだったそうです。

そして陶晴賢は、自他共に認める美男子だったのです。

陶晴賢の美貌にゾッコンとなるのに時間がかかりません。

虜となった大内義隆は、晴賢を側において寵愛します。

自らの顔だけで出世した陶晴賢は、学がなく、感情的な人物だったそうです。

主君の寵愛を一身に受けている晴賢は、わがままに育ったのも仕方がないでしょう。

しかし、強力なライバルが現れるのです。

名前は相良武任(さがらたけとう)

彼は、文官として大内義隆に仕えていました。

教養もあり、文化的な雰囲気を持つ相良武任に、次第に心奪われる大内義隆。

一方、陶晴賢は美貌のみで文化的素養がなく、喧嘩(合戦)は強いだけの粗野な男です。

陶晴賢は今までの希望が通らないことに憤りを感じて、ついにクーデーターを起こしてしまった。

という説もあります。

もし

陶晴賢が青年になるにつれ文化的素養を身に纏えば、また違った展開があったのかも知れません。

そして

自分の希望ばかりを押し付けるだけでは物事は動かないことも理解したのかも知れません。

主君(会社)は絶対と思うタイプ

文官と武官との間の派閥争い。

具体的には陶晴賢vs相良武任

肝心の大内義隆は公家文化に傾倒し、外征よりも内政に力を注ぎます。

つまり陶晴賢の武官よりも文官を重宝するといった感じです。

自分の存在意義をなくした陶晴賢が主導し、ついに「大寧寺の変(たいねいじのへん)」という政治クーデターを起こします。

これは陶晴賢の独断という見方が強かったのですが、毛利元就らと合議した結果というのが最新の説のようです。

さて「大寧寺の変」で主君・大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢。

そのまま主君の座に就くのではなく、九州の雄・大友宗麟の息子を当主に迎え自身は補佐の役割に徹します。

実質の主導権は陶晴賢ですが、ここで山内家・大友家の権威というものを借りたのでしょう。

しかし世の中は、陶晴賢が思うよりも実力主義・下剋上の世の中であったのです。

あるいは陶晴賢の政治能力が皆無であったのも要因でしょう。

ここで台頭するのが、のちの中国覇者である毛利元就です。

君主は権威であり絶対的なもの。

誰もが従うはずであるという思い込みが陶晴賢の人生を狂わせるのでした。

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自己評価が高いタイプ

自分はすごい。

自分は失敗しない。

自己肯定感が高い方は、それだけで運命を向上させますが高すぎるのも困ったものです。

陶晴賢は自己肯定感・自己評価があまりにも高いタイプでした。

それもそのはずです。

若い頃から主君である大内義隆の寵愛を受け、学はないが兵力にものを言わせて合戦では勝ち戦も多かったのですから。

これで自己評価の低い人間になる方が難しいほどです。

「三本松の戦い」と呼ばれる合戦で、陶晴賢は毛利元就に応援を要請します。

しかし、陶晴賢に見切りをつけた毛利元就。

反旗を翻し、次々に大内家の支配下である城を陥落し領土を拡大します。

思い通りにならないことが許せない陶晴賢。

そして大内家に逆らうはずがないと思い込んでいる陶晴賢。

敵対するのは格下と侮っている毛利元就。

ついに「厳島の戦い」が勃発します。

陶晴賢率いる軍勢およそ2万に対し毛利元就軍は僅か7千という毛利軍の圧倒的不利な状況です。

当然、陶晴賢は勝ちを確信しています。

自己評価の高い人間が陥りがちな思考の一つに

「リスクを軽視する」

というものがあります。

この思考に陥った陶晴賢は、日本三大奇襲と呼ばれる「厳島の戦い」で歴史的な大敗北を喫し、自決を選んだのでした。

何枚も上手な毛利元就との関係

\あなた好みの歴史本を探してみては?/

陶晴賢と毛利元就の関係は、守護代と国人領主の関係です。

現代風に言うと

大内カンパニーの本部幹部である陶晴賢

フランチャイズ加盟している大内傘下の社長である毛利元就

といったところでしょうか。

どちらが偉いというわけでもないですが、本部幹部としては相手を軽んじるところはあったでしょう。

やがて本部の副社長となった陶晴賢は、FC傘下として安芸に出店を加速している毛利元就を疎ましく思っていたのかも知れません。

そして毛利元就は、陶晴賢の経営能力の低さや人望のなさが世間に露見すると、すかさず大内カンパニー乗っ取りに着手した。

簡単に言うと毛利元就にとって、陶晴賢は自分の出世の踏み台といったところです。

陶晴賢を天下の大悪人に仕立てあげたのは毛利元就でもあります。

毛利元就は、陶晴賢よりも何枚も上手で、狡賢く、何年も機会を伺っていました。

これは

当主であった大内義隆、陶晴賢との距離や自身の立ち位置を常に考え続けていたからかと思われます。

立ち位置を理解していた毛利元就

毛利元就が生きた時代。

中国地方では、大内氏と尼子氏という2大勢力がありました。

国人たちは、ある時は大内氏の味方、またある時は尼子氏の味方という日和見的な立場でした。

しかし、毛利元就は尼子氏との確執もあり、大内義隆の側につくことを明言します。

大内傘下となったことが毛利元就のターニングポイントとなります。

小国の領主でしかなかった毛利氏・毛利元就が大内義隆の援軍も借りて「吉田郡山城の戦い」での勝利。

そして周辺豪族の盟主のような立場となります。

さらに安芸の名族・吉川氏と水軍で有名であった小早川氏に、それぞれ自分の息子を養子に出し家督を継がせます。

着実に地盤を固めた毛利元就は、

地盤を固めるために何が必要かを考え

大内傘下につくことを決意し

ついには中国地方の覇者にまで登り詰めます。

毛利元就は、抜群の距離感というかバランス感覚が優れていたのだと思います。

陶晴賢との違い

それは距離感やバランス感覚

そして勝利のためには手段を選ばないという見事な執念ではないでしょうか。

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だから陶晴賢は厳島の戦いで敗れた

毛利元就は早くに両親を亡くし、家臣に所領を奪われ、極貧の生活をしていました。

孤児となった毛利元就の幼少期のあだ名は「乞食若様」。

この経験が、毛利元就の人格形成にどのような影響を与えたのか。

恐らく

  • 自立心や向上心の向上
  • 責任感の強さ
  • 早熟で思慮深くなった
  • 感受性が強くなった
  • 孤独を感じやすくなった
  • 対人関係に敏感になった

この辺りでしょうか。

毛利元就にとって、まさに天下分け目の戦いである「厳島の戦い」。

中国地方の覇権を争う戦いでもあります。

圧倒的不利な戦いであることは百も承知ですが、毛利元就には勝算がありました。

毛利元就が持っていて

陶晴賢が持っていないもの

それは

他人を慮る(おもんばかる)ということです。

自身の不遇から得た能力である感受性や人の気持ちがわかることが、ここで発揮できたのです。

陶晴賢は他人を信用できなかった。

あるいは他人を信用しすぎた。

この陶晴賢の性格に賭けたのです。

世紀の奇襲戦と呼ばれる「厳島の戦い」は、陶晴賢の性格がなければ成功しなかったのではないでしょうか。

陶晴賢は自身の立ち位置、置かれている状況が分からず、「厳島の戦い」で自滅します。

ほんの少しの差、感受性の差が勝敗の明暗を分けたような気がします。

ちなみに毛利元就は、家族を非常に大事にしました。

愛妻家としても知られています。

「三本の矢」の名言は、幼少期の経験談からの生まれた言葉なのでしょう。

作られた悪人・陶晴賢!失敗こそが強さにつながる

陶晴賢は、悪人に仕立て上げられた不運な人物です。

しかし、下剋上を果たした事実は変わりません。

結局、陶晴賢は状況把握能力や分析能力が欠如した人物でした。

後世での評判でもイマイチです。

悪逆非道な人物とまではいかないまでも、愚かな人物として描かれます。

しかし、人生とは失敗の積み重ねであり、失敗しかしないのが人生でもあります。

陶晴賢は、自己評価が高い人物です。

一度の失敗にも挫けない人物でもあります。

もし厳島の戦いで陶晴賢が生き延びていれば、次に負けていたのは毛利元就ではないでしょうか。

陶晴賢が負けた原因。

それは人生における失敗の総数が足りなかったのではと思います。

失敗の数が強さにつながる

そんな教訓を陶晴賢に学ばさせていただいたように思います。

この記事で戦国時代の人物、陶晴賢の人生に興味を少し持っていただければ幸いです。

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