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『峠』で一躍有名!河井継之助が掲げるスイス的思想

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歴史
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知られざる英雄・河井継之助

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幕末の英雄!河井継之助と坂本龍馬

司馬遼太郎の小説によって、その名を知られるようになった河井継之助と坂本龍馬。

しかし坂本龍馬に比べ、河井継之助の知名度は低いのが実情です。

司馬遼太郎の小説によって、河井継之助は全国で有名になるわけですが、すでに地元新潟では幕末の英雄として人気の人物だったのです。

幕末において、彼は旧幕府軍と明治新政府軍を相手どり、中立の立場である長岡藩であろうとしました。

これは強力中央集権国家を目指している日本にとって目障りな存在でありました。

当然、両勢力は、その指針を完全に否定し、危険思想をもった藩として危険視します。

結果、旧幕府軍が結成した奥羽越列藩同盟に長岡藩も加入し、北越戊辰戦争に突入することになったのでした。

河井継之助が「独立中立」の立場を取ろうとした背景とは。

そして旧幕府軍と新政府軍の間で、奇抜な独立中立の思想を貫こうとした河井継之助とは何者だったのでしょうか。

そもそも「独立中立」とは何なのでしょう。

最近では、アニメや映画などで好評を得ている「沈黙の艦隊」でも唱えられている「独立中立」という思想。

これは、とても困難な道のりですが、実際に「独立中立」の立場を貫いている国もあります。

それはスイスという国です。

また独立中立国・スイスは、国民の幸福度が常に上位にある国としても有名です。

河井継之助の足跡、スイスという国を紹介しながら、独立中立という思想について言及します。

河井継之助とスイスの歴史を知ることで「中立独立」という思想について、ご一考していただければ幸いです。

小説や映画・ドラマでの河井継之助のイメージは、ガトリング銃をぶっ放すというイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。

独立中立には自衛力が必要なのだというメッセージでしょう。

それとも革命家という強烈なイメージを河井継之助に印象づけたいのかも知れません。

強烈な男・河井継之助が辿った人生と最後、独立中立に至るまでの考えなどを簡単にまとめていきます。

・河井継之助が目指す中立藩という考え

河井継之助は、文政10年(1827年)1月1日に誕生します。

幼少の頃から型にハマることを嫌い、学問や剣術、弓術、馬術などを習ったが、流儀や形式といった基本を習わず、我流を貫き師匠を困らしたそうです。

青年になると江戸に遊学し、佐久間象山など様々な師匠の下で学びました。

やがて家督を相続した継之助は外様吟味役となりますが、藩政改革に有用な学問の習得のため、再び江戸に遊学します。

その頃から自分がリーダーになった時、長岡藩の行く末に不安を覚えていたのかも知れません。

帰藩した河井継之助は、負債だらけの長岡藩建て直しに成功します。

そして早くから武家社会の崩壊を予見していた継之助。

そのことばかりを考えて行動するようになります。

時は黒船により開国を迫られ、江戸幕府が終焉を迎えようとする幕末。

時代を変えるような革新・革命・改革を誰もが切望していました。

それらが熱となり、うねりとなり、明治という新時代に突入しようとする頃です。

そのような情勢の中、長岡藩は

新政府への恭順か。

旧幕府への恩義か。

決断を迫られている中、河井継之助は異次元の意志表明をします。

それが「独立中立公国」という行動宣言です。

決意表明をした河井継之助は、藩の武力強化を図るため、アームストロング砲・ガトリング銃などの最新兵器を買い揃えます。

ちなみに当時、日本にはアームストロング砲が3台あり、その内2台を長岡藩が所有していたといいます。

そして、彼は強力な武器を背景に自藩の中立意志と旧幕府・新政府との交渉を試みますが失敗に終わります。

独立中立公国の夢敗れた継之助率いる長岡藩は、恩義ある旧幕府側につき、奥羽越列藩同盟に参加します。

そして約3ヶ月にも及ぶ北越戊辰戦争に突入するのでした。

北越戊辰戦争当初、最新兵器と継之助の戦略により、新政府軍とほぼ互角、やや優勢の戦局でした。

しかし、勢いのある新政府軍に徐々に押され始め、ついに長岡城を奪われてしまうのです。

万策つきた継之助は、自らも負傷し戦線を離脱します。

熾烈を極めた北越戊辰戦争により継之助は左足を負傷します。

そして会津に敗走する際、一人で歩行もままならぬ様を自嘲し

「八十里 腰抜け武士の 越す

という辞世の句を残したといいます。

河井継之助は、戦争が受けた傷が癒えず、この世を去ります。

その後の長岡藩はというと、賊軍とされ貧困と飢餓に苦しむこととなります。

結局、長岡藩は廃藩となります。

長岡の経済が盛り返すのは、武士から商人の時代に移りいく、ずっと先の未来の話です。

長岡藩を壊滅的な状態にした原因は全て河井継之助にあるといった見方もあります。

また当時から河井継之助の方針に異を唱える武士層や農民層も多くいました。

一説に北越戊辰戦争の敗因は、武士層や農民層による一揆が原因で長岡城が陥落したともいわれています。

一揆鎮圧のため多くの領民を処刑した継之助は、民意を反映した政治家であったのか。

武装中立が長岡藩にとって良策であったのか。

領民の評価が芳しくない河井継之助ですが、長岡藩の行末を憂慮し、なんとかしようとした1人のサムライであったのは事実です。

榎本武揚の「蝦夷共和国」にもいえますが、もし「独立中立公国」が成立されれば、偉大なる革命家として名を連ねる人物であったことでしょう。

『愛の不時着』スイスの幸福度が高い理由

永世中立国として有名な国といえばスイスでしょう。

最近では「愛の不時着」の舞台ともなった永世中立国です。

現在、永世中立国はオースリアスイスのみとなっています。

特にスイスの永世中立国化は1815年からと、その歴史は古いのです。

スイスの特徴は以下の点が挙げられます。

この特徴からスイス銀行は、世界の富裕層が利用する有名な銀行となりました。

世界でも有数の富裕国であり、永世中立国であるスイスについて、少し触れてみようと思います。

永世中立国の定義は、あらゆる戦争に参加せず中立であることを認められている国のことです。

また中立を守るために他国との軍事同盟やNATOなどと集団安全保障条約を結ばない国でもあります。

そして中立国維持のため軍事力を保持していますが、自国防衛と中立を脅かされる事態のみ行使できるという条件付きです。

強力な軍事力こそが独立中立を守ることができるのです。

スイスは軍事力あってこそ第二次世界大戦中も中立国として維持できたのです。

他のヨーロッパ諸国もスイスがあることで、和平交渉先に選べるといった利点もありました。

ちなみにスイスの兵数や軍事整備は、アメリカや中国のように突出しているわけではありません。

しかしスイス領土が侵入される事態に陥ったとき、全国民20万人ほどが兵隊化しますので戦いは避けたい国であることは間違い無いでしょう。

永世中立であるスイスは、国民幸福度が高いことでも有名です。

スイス国民の幸福度が高い理由として

ちなみに日本の幸福度は、先進諸国の中でも最低の部類です。

日本の幸福度が低い理由も上記を見れば、納得の理由です。

大ヒット韓国ドラマ「愛の不時着」の舞台ともなったスイス

ロケ地はチューリッヒやジーグリスヴィル パノラマ橋

そしてピアノのシーンで有名なブリエンツ湖などなど。

自然豊かで、永世中立国で、国民の幸福度が高い国。

それがスイスという国の魅力です。

ヨーロッパの小旅行に幸福の国・スイスを選んでみてはいかがでしょうか。

河井継之助の目的はスイスの直接民主制!

民意のない大義名分は、時に残虐性を帯び暴力を生みます。

歴史を紐解いても、指導力のあるリーダーは残虐非道な暴挙に進むことが少なからずあります。

現代でもワンマン社長のパワハラは目に余るものがあります。

河井継之助は、民意が望むことを無視し長岡藩の貧困を招いた人物です。

しかし、武士の世の中から商人の世の中になることを予見した先見性のある指導者でもありました。

事実、継之助の従者・外山侑造は、継之助の教えを守り、実業界で大成功を収めています。

そして独立中立という思想。

河井継之助は、長岡藩を思い行末を案じての異次元の決意でした。

この決意が民意を反映できうるものであったのか。

もしスイスにみる直接民主制を導入していれば、少し違った未来が待っていたかも知れません。

直接民主制とは、古代ギリシャに見られる民主制度であり、国の代表に頼らない直接政治に介入する制度のことです。

河井継之助を

時代が産んだ英雄とみるか。

大衆の気持ちを読み間違えた愚者とみるか。

「独立中立」という目的を果たすには「直接民主制」の導入が正解の近道だったのです。

国の代表に頼らない直接民主制という制度は、今の先行き不透明な日本にこそ、求められている制度なのではないでしょうか。

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