スポンサーリンク

#こんにちは、当ブログの管理人です。当ブログではアフィリエイト広告を利用しております。

それでは、ごゆっくりとご覧ください!

悪口(あっこう)で成功した武将・失敗した武将で悪口を考える!

\ランキング参加中/
歴史
この記事は約8分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

スポンサーリンク
スポンサーリンク

鎌倉時代は悪口禁止だった?

他人への誹謗中傷が社会問題へと発展している現代社会ですが、鎌倉時代では法律で悪口が禁止されていたのは、ご存知ですか。

鎌倉時代では、「御成敗式目」という武家のための法律があり、その中に他人への悪口は禁止されていました。

処分は相当なもので、ひどい悪口は流罪になるほどです。

何よりも体面を重んずる武士は、悪口が耐えられない屈辱であり、争いの元となるからこその法律であったのでしょう。

しかし、法律で禁止されている武士にも、堂々と悪口を言える場所がありました。

それは戦の場、合戦場です。

合戦にまで至っているので、当然と言えば当然なのですが、戦国時代では悪口が一つの戦法にまでなっているのです。

いかに悪口が効果があったのか推して知るべしです。

戦国時代では、悪口(あっこう)戦略を十分に発揮し、戦場で大活躍した武将もいます。

今回は、悪口を利用して成功した武将、あるいは悪口が元で失敗した武将をご紹介いたします。

他人への誹謗中傷、悪口をストレス発散にしていると、後でとんでもないことになります。

ちょっとした愚痴に留めておくことが、ちょうど良い。

そのように感じてもらえると幸いです。

スポンサーリンク

戦国時代は立派な戦法に?

戦国時代の合戦でも、戦のルールがありました。

手順を説明すると

ザッとした手順ですが、合戦の決まりごとは上記のような感じです。

しかし、このルールを破る方法があり、俗に言う奇襲作戦です。

早朝や夜に紛れて、敵陣を攻撃する一般的な奇襲作戦もあれば、敵領地の田畑を荒らす、放火や略奪を繰り返すなどの卑怯な奇襲もありました。

その奇襲作戦の中に、敵大将への悪口(あっこう)というものがあったのです。

「あっこう」は「わるぐち」と言い方が違うだけで、同じ意味ですが、なぜかヒドイ悪口に聞こえてしまいますね。

その悪口を上手く活用して、自軍を勝利に導いた武将や悪口が原因で大合戦になった武将、悪口を言われて謀反を起こした武将などを次にご紹介いたします。

悪口(あっこう)作戦に成功・失敗した武将たち

悪口作戦は、上手く活用すれば味方が増えますが、下手に活用すると自分の首を絞める諸刃の剣です。

例えば、プロレスの世界や格闘技の世界でも、悪口作戦を上手く活用して、逆上した敵を見事打ち負かすといったドラマもあります。

逆に「ビックマウス」がアダとなり、負けたときの散々な言われようの悲惨な格闘家も多くいらっしゃいます。

この章では三人の悪口作戦で成功・失敗した武将をご紹介いたします。

「口は災いの元」とは、昔の人はよく言ったもの。

相手を間違えるとヒドイことになってしまうのが、ご理解できるのではないでしょうか。

榊原康政の秀吉いじり

徳川四天王の1人である榊原康政。

彼が大活躍したのは、豊臣秀吉との大戦である「小牧・長久手の戦い」です。

大軍を擁している豊臣秀吉に対して、少数寡勢である織田信雄・徳川家康軍。

一説に10万対1万強などとも言われています。

小牧・長久手の戦に勝利した徳川家康は、飛躍的な躍進を遂げ、ついには天下統一を果たしました。

まさに

「ジャイアントキリング」

「徳川家康のターニングポイント」

この大事な戦で効果を発揮したのが、榊原康政の挑発文です。

彼は、豊臣秀吉の容姿から出自に至るまで、ありとあらゆる罵詈雑言を書きなぐり、河原に貼り付けたと言います。

これを見た豊臣秀吉は、劣化の如く怒り狂い、ついには榊原康政の首に報奨金をつけるほどでした。

逆上した秀吉は、まんまと榊原康政の作戦にハマってしまって大敗を喫するのでした。

後日、豊臣秀吉に呼ばれた榊原康政。

当然、康政、首覚悟で出かけるのですが、徳川随一の武将と褒めちぎられ、領地を与えられるほどの許されようでした。

これは、豊臣秀吉の器の広さを伝えるエピソードですが、内心どのような気持ちだったのでしょうか。

容姿いじりと出自に関することは、最低の悪口の部類ですので、相当腹が立っていたのは事実であったことでしょう。

余談ですが、秀吉の悪口を言い続けた豊臣四天王の1人である神子田正治(みこだまさはる)は、小牧・長久手の戦いで追放されています。

悪口も誰に言われるかで対応が違うと言うものなのでしょうか。

\豊臣四天王の記事は/

\本当は榊原康政ターゲット

理論派!直江兼続の家康への抗議文

「愛」がある兜を身に纏った上杉藩随一の知将と言えば直江兼続。

彼は、徳川家康を挑発した「直江状」を書いた人物です。

この直江状が徳川家康を激怒させて関ヶ原の戦いに突入したのは、あまりにも有名な話です。

直江状の内容は、後世の作り話とされていますが、直江状を書いたのは事実であり、関ヶ原の戦いに至ったのも事実です。

どのような内容で伝わっているかと言うと

こちらは謀反の意思は全くないのに、つまらない難癖をつけて陥れようとしている。

もし、これ以上誹謗中傷が続くのであれば、ケンカも辞さないので我が領地まで来てください。

概ねの内容としては、このような感じです。

直江状を読んだ徳川家康は、怒り心頭、

上杉征伐にすぐ向かい、そして関ヶ原の戦いに突入したのでした。

徳川家康は、計画遂行のためにわざと怒ったのか、それとも感情的になったのか。

今となっては分かりません。

悪口には悪口を。

売られた喧嘩は買う。

啖呵を切った兼続ですが、戦さに負けて家康に謝りに行ってます。

やはり

悪口にはスルー。

売られた喧嘩は確実に勝つ方法を見つける。

というのが正しい悪口の対処法なのかも知れません。

スポンサーリンク

悪口が原因?キレた明智光秀は謀反を起こす!

世間的に罵詈雑言、相手を悪様に罵るイメージのある織田信長。

彼の部下でイジメ・悪口の対象となったのが明智光秀です。

明智光秀を「キンカン頭」と罵り、些細な失敗でも殴りつけるといった傍若無人な振る舞いでした。

キンカン頭とは、俗に言うハゲの悪称です。

スマートで理知的な明智光秀には耐え難い屈辱だったのでしょう。

おまけに出世競争では豊臣秀吉に追い越されるかも知れない不安を抱えていました。

そんな悩める明智光秀に絶好のチャンスが到来します。

なんと暴君織田信長が少しの護衛だけで本能寺に泊まるというのです。

明智光秀が詠んだという有名な句

「時は今

あめが下知る

皐月かな」

これは、織田信長に謀反を仕掛けるという意思表示の句だと言われています。

ついに明智光秀は織田信長を本能寺にて討ち取ります。

謀反の理由は、未だ謎のままですが織田信長による度重なる悪口が原因だとする説もあります。

容姿いじりは、例え愛情があったとしても、ほどほどにしないと後で大きなしっぺ返しを受けてしまうという教訓かも知れません。

誹謗中傷は必ず自分に返ってくる!

人はプライドを傷つけられると何をするか分かりません。

鎌倉時代では悪口が法律で禁止になったほど1番プライドを傷つける行為です。

戦国時代では悪口が戦略になったほどの効果的な方法でもありました。

悪口は戦略として良い方法なのかも知れません。

しかし、相手は怨み続けるという結果となり、後々、倍返しとして返ってくることも多いです。

愛情ゆえの悪口であっても、本人がどのように感じるかで結果が大きく変わってきます。

明智光秀のように謀反を起こすキッカケとなることも。

悪口は蜜の味です。

悪口を言うことで快感を得れる悪魔的な効果もあります。

例えウイットに飛んだ諧謔的な悪口や批判であっても理解されるかどうかは相手によります。

結局、悪口にならない程度に言葉を選び、諧謔的な悪口や批判は相手の度量を鑑みて言葉にするしかありません。

悪口という毒は毒のまま。

薬するにはお互いの信頼や知性が必要ということでしょうか。

スポンサーリンク

タイトルとURLをコピーしました