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センゴク権兵衛でイメージチェンジ!仙石秀久のしくじり人生とは?

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歴史上の人物はよくイメチェンをする!

人の評価とは、時代によりガラリと一変します。

歴史を紐解けば、英雄が暴君になり、逆もまた然りです。

例えば

織田信長はパワハラ気質ではなく、豊臣秀吉の方がヤバかった。

徳川家康は忍耐の人ではなく、かなり短気だった。

など

その時代の人の感じ方によっても評価が変わります。

ここでも1人、戦国武将で印象を変えつつある人物がいます。

仙石秀久です。

仙石秀久は、豊臣配下の最古参武将として大いに活躍した人物ですが、ある合戦のしくじりにより評価を落とした人物です。

評価としては下の中ぐらい、歴史好きにとっては下の下の評価です。

ある作家の影響もあり、仙石秀久は蛇蝎のように嫌われていきます。

しかし、最近「センゴク権平」という作品により、評価を上げつつあります。

作家により、評価が上下する人物である仙石秀久の人生を紹介しながら、評価に値する人望や役割について言及していこうと思います。

最後まで、読んでいただけたら幸いです。

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センゴク権兵衛を悪者に仕立てたのはアノ大作家?

センゴク権兵衛こと千石秀久は評判のよろしくない武将です。

仙石秀久のイメージというと利己主義で直情型、野心のために大事な陪臣を殺してしまった武将。

このようなイメージがついてまわりました。

とても人から好かれるタイプの人間ではないような感じですが、このイメージを作りあげたのが司馬遼太郎です。

司馬遼太郎自身、仙石秀久を好きではなかった様子で小説の中では酷い扱いを受けています。

影響力のある大作家に嫌われてしまったことにより、仙石秀久は嫌な奴無能な武将となったのです。

とはいえ仙石秀久。

大失敗をしている武将であることは間違いのない事実です。

では、どのような大失敗、しくじりをしたのでしょうか。

センゴク権兵衛のしくじり人生とは?

センゴク権兵衛こと仙石秀久は、長く豊臣秀吉に支えた最古参の武将です。

生まれは美濃、豪族の息子です。

織田信長の美濃攻めの際、家督を継ぎ、織田方につきました。

織田家に従軍した仙石秀久。

信長の命により、豊臣秀吉の部下となります。

以来、秀吉の家臣として幾多の合戦に出陣します。

気づけば秀吉配下の最古参。

周囲から見れば、お局オジサンといった感じでしょうか。

戦い方は、突進あるのみの猪武者のイメージが強い秀久ですが、秀吉に仕えた当初は参謀長官兼指揮官という役割でした。

秀吉には「ちゃんとした武将」「しっかりした家臣」が仙石秀久であり、大変重宝したのでした。

順風満帆に戦果を上げる仙石秀久に、転機が訪れます。

織田信長が本能寺の変に横死すると、豊臣秀吉は明智光秀を山崎の戦いで破り、天下統一に乗り出します。

秀吉の命により四国征伐に着手する秀久は、長宗我部元親と対時します。

ここで長宗我部軍に、のぼり旗を奪われるほどの大敗北を喫します。

のぼり旗を奪われることは、当時の武将にとって、恥ずかしい事この上ない失敗なのです。

その後、数に勝る秀吉軍は、ついに長宗我部元親を臣従させ四国征伐に成功します。

のぼり旗を奪われるしくじりをした秀久ですが、四国征伐に貢献したことにより、ついに讃岐10万石の大名となるのです。

そして仙石秀久のイメージを決定づけたのが九州征伐です。

九州征伐が決定されると四国勢の軍監に任命された秀久は、十河存保、長宗我部元親・信親親子と共に大友宗麟と合流。

静観が豊臣秀吉の命令でしたが、秀久は背き、島津軍と激突します。

これが世に言う「戸次川の戦い」です。

\最強島津軍の記事は/

結果は、島津軍の必殺技「釣り野伏せ」により、十河存保と長宗我部信親を失うほどの大敗をします。

命令に背いた上に、多くの死傷者を出した咎により、仙石秀久は改易・謹慎処分となります。

ちなみに愛息を失った長宗我部元親は、人格が変わるほどの乱れようだったそうです。

\長宗我部元親の記事は/

九州征伐のしくじりが、仙石秀久が猪武者で直情型の武将としてのイメージを強固にしました。

そして沢山の犠牲者を出した戸次川の戦いでイメージを悪くしたのです。

本人はベストな選択をしたが、結果が伴わない行動は非難を浴びる。

それが、しくじりの本質なのではないでしょうか。

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仙石秀久の評判は?

仙石秀久の世間の評判は、どうでしょうか。

やはり戸次川の戦いの敗北により有力な武将を死なせたことで、良くはないです。

ただ、しくじりからの大躍進が秀逸です。

牢人に成り下がった秀久は、北条攻めの際、牢人集団を結成し参戦します。

北条攻めで果敢な戦いを認められた秀久は、また大名へと返り咲いたのです。

その後、徳川家康・秀忠を支え、徳川幕府でも中心的人物となりました。

仙石秀久は

  • 大失敗で終わらなかった武将
  • しくじりから何かを学んだ人物
  • 三英傑を側で見た男

など魅力的な題材が豊富にある戦国時代で最も成功した人物ではないでしょうか。

しかし成功した武将にも関わらずイマイチ評価、評判は良くない。

原因は、司馬遼太郎なのか、大失敗のイメージが強いのか、それとも当時から評判が悪かったのか。

とにもかくにも、あまり魅力的な人物ではなかったのかも知れません。

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漫画「センゴク権兵衛」とは?

数多の歴史本や信長の野望でもパッとしない仙石秀久にフォーカスした大人気漫画です。

センゴク権兵衛が大活躍する歴史コミックですが、脇を飾る豊臣秀吉や長宗我部元親など魅力的に描かれていて秀逸極まれりです。

嫌われ者の仙石秀久を、これほどまでに描かれているのは他にない作品です。

この本を読むことで仙石秀久のイメージがガラリと変わること間違いなし。

ぜひ一度読んでみてください。

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原点は大人気歴史ゲーム!

センゴク権兵衛の作者が語っているのが、歴史シュミレーションゲームの金字塔「信長の野望」をヒントにしているとのこと。

「信長の野望」での仙石秀久の能力値は、それほど高いものではないですが、お気に入りの武将を育て、能力値の高い武将を配下にして天下統一に導くという楽しみ方もあります。

この機会に「信長の野望」で、マイナーな武将を天下の檜舞台に立たせてみてはいかがでしょう。

「信長の野望」が長く愛される理由は、新作が出るたびにバージョンアップや各武将の能力値や武将数の変動などではないでしょうか。

それと歴史のもしを叶えてくれるところでしょう。

もし明智光秀が豊臣秀吉に打ち倒されなかったら?

今川義元が桶狭間の戦いで勝っていたら?

様々なシチュエーションを楽しむこともできます。

また「信長の野望」で、戦国好き、城好きになった方も多いでしょう。

歴史シュミレーションゲームは

「信長の野望」で始まり、まだ「信長の野望」を超えるゲームがない。

と言っても過言ではないのが事実なのです。

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センゴク権兵衛の魅力や見どころは?

漫画「センゴク権兵衛」の魅力は、今までの仙石秀久の評価を覆したところにあります。

そして脇を飾る有名武将や九州・四国のマイナーな武将にフォーカスした魅力的な描き方が秀逸なところかと思います。

臨場感のある戦闘シーンや細かくリサーチしている史実など、画力と相まって引き込まれるます。

しくじり武将である仙石秀久が、しくじりだけをフォーカスされがちな武将であることは悔やまれる。

そんな想いもあったのでしょうか。

今後の仙石秀久の評価を一変させる作品。

そんな期待を感じさせられる秀逸な作品ではないでしょうか。

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人望の無い仙石久秀の役割とは?

歴史には数多の実績のある人物がいますが、仙石秀久ほど、しくじりを取り上げられ、評価を落とした人物もあまりいないでしょう。

「センゴク権兵衛」で少しは評価を上げていますが、歴史愛好家の間では、あまり好かれておらず、ともすれば忘れられる存在です。

しくじりから大成功した人物である仙石秀久は、なぜ後半の名誉にフォーカスされないのでしょうか。

それは、人望がなかったからかも知れません。

人望がない人の特徴とは

  • ルールや時間を守らない
  • 他人への配慮がない
  • 協調性がない
  • 感情の起伏が激しい
  • 人の話を聞かない

だそうです。

仙石秀久のイメージにピッタリではないでしょうか。

違った見方をすると仙石秀久には方面司令官としての役割が大きなストレスだったのかも知れません。

役割は、期待の表れでもありますが本人にしたら重荷以外の何ものでもありません。

もしかしたら仙石秀久は、改易・蟄居処分でホッとしたのかも知れません。

あるいは、ただの武将でありたかったのかも知れません。

小田原攻めに牢人集団の長として参加した時は、さぞ高揚感があったことでしょう。

そして徳川幕府、特に秀忠に気に入られるのですが、豊臣家の最古参であったからというのが主な理由です。

大大名ではなく5万石の大名の位置。

これが彼が一番輝き、本人が望む結果であり、役割であったのかも知れません。

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