\日本を知る!/
\魅力的な日光東照宮/
目次
なぜ徳川家康は日光東照宮を建立したのか?
日光東照宮は、誰もが一度は目にしたことがあるであろう美しい社寺です。
豪華絢爛な彫刻や、圧倒的な存在感を放つ建築は、世界遺産にも登録されているほど優美な造りとなっています。
建立したのは徳川家康の意思を継いだ二代目将軍である徳川秀忠。
徳川家康は、こんな場所に東照宮を建てて欲しいと遺言を残したのでしょう。
彼の想いを知ることで、日光東照宮の魅力がさらに安心なこと間違いなしです!
また日光東照宮に関わった武将などもご紹介します。
徳川家康の想い、そして他の武将の関わり方を知ることで興味をそそられるのは日本の文化に慣れ親しんだ方だけでしょうか。
年々、訪日外国人が日本を訪れる機会が増えました。
訪日外国人は、異国の文化や独自の思想を知る手掛かりが欲しいのです。
この記事は、徳川家康と日光東照宮のストーリーを私見を交えて、お伝えしています。
すこしでも日光東照宮に興味を持っていただけたら幸いです。
日光東照宮に関わった戦国武将
日光東照宮は徳川家康のお墓という捉え方をされていますが違います。
徳川家康のお墓は久能山にあり、日光東照宮は家康の魂を祀る場所です。
魂を祀る場所の方が豪華絢爛とは何とも不思議な気分ですが、それほど家康の想いを感じられるということでしょう。
この豪奢な建物に誰もが知る多くの武将が灯籠などを奉納したり、造営に関わったりしました。
どのような武将が関わったかというと
- 伊達政宗
- 藤堂高虎
- 徳川家光
- 天海
など
錚々たる顔ぶれです。
時の権力者なので当然といえば当然ですが。
では具体的にどのように関わったのかをサラッとご紹介いたします。
伊達政宗の灯籠
日光東照宮には120基以上の灯籠があります。
その内の一つ否二つが伊達政宗の灯籠です。
伊達政宗がポルトガルから取り寄せ、南蛮鉄で作られた珍しい灯篭です。
一般的に灯籠は石か銅製なのですが、あえて鉄製で作らせているところに伊達政宗らしさが出ています。
しかし、灯籠を寄進した際はピカピカだったでしょうが、数年で錆びてしまったとのこと。
派手好き政宗、気を衒い(てらい)過ぎて鉄は錆びるということを忘れていたのかも知れませんね。
藤堂高虎は日光東照宮のデザイナー
築城名人で知られている藤堂高虎は、かなり徳川家康に信頼されていました。
家康が亡くなる間際に
「亡くなっても自分と天海、そして高虎の三人が集まる場所が欲しい」
と遺言を残したそうです。
その遺言通り、高虎は日光東照宮の造営にも携わっていました。
実際の指揮にあたったのは二代将軍・徳川秀忠ですが、秀忠は高虎や天海、本多正純の造営を命じました。
ちなみに設計にあたったのは幕府の大工頭である中井清正(なかいきよまさ)という人物です。
そうして日光東照宮は、本殿・拝殿・本地堂などの主な社殿が完成しました。
また築城に関わった城が20を超える築城名人の藤堂高虎は、江戸城の改装にも携わっています。
どれほど徳川家康に目をかけられたのかが伺え知れます。
おじいちゃん子の徳川家光
三代将軍・徳川家光は、徳川幕藩体制の基礎を築いた人物です。
彼がいなければ、徳川幕府が260年以上続かなかったとも言われています。
また徳川家康が家光を将軍をすると宣言したことにより、彼はスムーズに将軍職に就くことができました。
必然、家光は祖父である家康への恩義や感謝、愛情を強く抱くようになりました。
この色々な感情を形にあらわしたのが日光東照宮です。
父・徳川秀忠が創建した日光東照宮ですが、もともとは家康の遺言により質素な造りでした。
その日光東照宮を大改修し、現在の豪華絢爛な姿にしたのが徳川家光。
彼は生涯に10回以上、日光東照宮に参ったそうです。
奉納した剣も天下随一の剣。
いかに祖父への愛情があったかを伺えるというものです。
神・家康誕生の立役者!南海坊天海
最後は天台宗の大僧正、謎多き男である南海坊天海です。
天海と家康の出会いは、いつどこで出会い、どのタイミングで大側近になったのか詳細は不明です。
ただ、関ヶ原の戦い以降には側近として、家康は天海を重用しています。
天海が最も活躍し、最も有名な事件は「方広寺鐘銘事件」でしょう。
この事件をキッカケに豊臣家は、大阪の陣に踏切り、そして滅ぼされました。
徳川家康にとって、天海は藤堂高虎とともに最も信頼した莫逆の友とも言える間柄でした。
家康が亡くなると、天海は家康を神格化するために尽力します。
その一つが日光東照宮のプロデュースです。
ちなみに日光東照宮薬師堂法華万部供養の導師を務めたのは97歳。
天海が亡くなった年齢が108歳。
驚くべき長寿を全うした人物なのです。
あまりに謎多き人生なので、明智光秀同一人物説がまことしやかに囁(ささや)かれています。
訪日外国人から見た日光東照宮とは?
徳川家康が日本の平和を願い、息子秀忠が建立した日光東照宮。
戦国時代の激動を乗り越え、江戸幕府が250年以上も安定を築いた背景にある家康のストーリーは、日本の歴史のターニングポイントを象徴しています。
それが日光東照宮に現れています。
また、「眠り猫」や「三猿」に秘められた教訓は、日本の文化や哲学を学ぶには最適です。
ちなみに
眠り猫が日光東照宮にある意味とは次のように解釈されています。
- 猫が眠っていることで雀も安心できる共存できる世の中の到来
- 徳川家康の身辺を警備している守護猫
- 日の光を浴びて寝ていることから日光とかけている
また三猿の意味は
「見ざる」「言わざる」「聞かざる」という意味で、子供の成長を表していると言われています。
すなわち、この三猿のように悪いことをするのではなく、良い行いをすることで立派な大人に育って欲しいという想いということになります。
ちなみに三猿は、論語からの引用したものであり具現化したものです。
徳川家康と日光東照宮の物語は、歴史的リーダーシップ、平和の象徴、建築美、哲学的な教訓といった要素を含むため、
特にアメリカ、イギリス、ドイツ、カナダ、フランスなど多くのキャリアを経た年代に響くでしょう。
特に成功や平和への意義を考える年代層や文化において、徳川家康と日光東照宮の関係やストーリーは深い感銘を与える力があります。
日本の文化や哲学を知りたい外国人に
オススメしたい
感じてもらいたい
そんな場所が日光東照宮なのです。
徳川家康にとっての日光東照宮とは?
激動の戦国時代を制し天下統一を果たした徳川家康。
彼は、徳川幕藩体制を礎を築き、250年以上もの安寧な世の中にした偉大な人物です。
世の平和を願い、建立したのが日光東照宮です。
徳川の繁栄を永久に願うという意味もあるのでしょうが
本音の部分で
死後の世界でも闘いたくない
闘うのはコリゴリだ
という想いもあったのではないでしょうか。
幼少期から闘いに明け暮れ、惨めな思いも、負けの悔しさも、全て経験した徳川家康。
死後の世界ぐらい平穏に生きたいと願った故の東照宮建設ではと思えてなりません。
最初の造りは質素そのものだったそうです。
徳川家康が本当に望んだもの。
それは
平穏な日常に、少しばかりの友達と共に楽しく生きたい。
日光東照宮にかけた想いを知ると
只只、それだけをひたすらに望んでいたのかも知れませんね。
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