目次
紫式部の「源氏物語」が大ヒット!ひらがな表記の功績とは
2024年の大河が発表されて久しい今日この頃。
大河ドラマで取り沙汰されるのは、概ね戦国武将の王道作品ばかりでしたが、昨今の大河は、趣向を異にす作品が多いように感じます。
2024年の大河ドラマは、紫式部が主人公の作品です。
その後も決定されており、2025年は、蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)がテーマの大河ドラマです。
2連続での文化人がテーマの作品は、初めての試みだそうで、いよいよ大河ドラマも変革期に入っているのかも知れません。
日本では有名な存在の紫式部ですが、海外ではどうなのでしょうか?
海外の反応はというと、紫式部が著した「源氏物語」が英訳されるほど、評価されているのです。
しかも「源氏物語」は、世界で最も古い長編小説とされているとのこと。
「The tale of Genji」という題で出版され、日本の文化を感じる上で貴重な文学という位置付けでもあります。
平安時代でも人気女流作家として脚光を集めていた紫式部ですが、彼女が著した「源氏物語」には、ヒットする理由があるのです。
それは「ひらがな」。
平安時代、男性は漢文で読み書きするのが当たり前の時代です。
ひらがなで読み書きするのは、女性と決まっており、読書は男性目線の漢文書物ばかりでした。
ここで稀代のヒットメーカー紫式部は、その著「源氏物語」をひらがな主体で出版するのです。
しかもターゲット層が好みやすい恋愛物で勝負をかけます。
「源氏物語」は、ご近所や家族に読ませる読み物としたので、偶然の産物である部分が多いのですが、この非凡なる才能に一目置いたのが、時の最高権力者、藤原道長なのです。
藤原道長が認めた紫式部の才能
藤原道長とは、平安時代最高の権力者で「摂関政治」を遂行した人物として有名です。
「摂関政治」とは、簡単に言うと、天皇を補佐する役割である摂政、関白に就任し政治の中心に自らを置く政治のことです。
藤原道長は、あらゆる手を使って、権力を我が物にしました。
この立身出世術に長けた人物である道長をモデルとしているのが「源氏物語」と言われています。
藤原道長は、和歌や漢詩に精通しており、文学に並々ならぬ興味を示していた人物でも有名です。
大物政治家、藤原道長というパトロンがいてこそ、紫式部は長編小説「源氏物語」を書き上げることが
できたのです。
・紫式部とは
紫式部の生まれた年や本名は、不詳です。
日本の歴史に名を連ねる人物であっても氏素性がわからないのが常です。
その理由は2点ほどあります。
・日本は古来より言霊文化であり、名前を明かすことは、良くないとされていたこと
・歴史に左右されない人物は、資料としての存在に値しないものと扱われていたこと
このような理由によって、紫式部の生まれた年や本名がわからないのです。
紫式部の名前は、父親や兄が式部丞(しきぶのじょう)であったことから「藤式部(とうのしきぶ)」と初めは呼ばれていました。
式部丞とは、律令制での官僚の名前です。
その後、源氏物語のヒットにより、源氏物語最大のヒロインである「紫の上」にちなんで「紫式部」と呼ばれるようになったのです。
紫式部は、藤原為時(ふじわらためとき)の娘で、藤原冬嗣(ふじわらふゆつぎ)という名門の分家出身です。
今で言うところの中流家庭といったところでしょうか。
紫式部は、幼いころから成績優秀で、特に漢学、音楽、和歌の才能に秀でていました。
その才能を見込まれ、1007年頃に中宮彰子に出仕します。
中宮彰子とは、藤原道長の長女であり、天皇のお妃になる人物です。
源氏物語の大半は、中宮彰子に出仕してから執筆し、完成しています。
後半生の紫式部が、どうなったかは詳しい資料がなく、いつ亡くなったかもわかりません。
しかし、紫式部ではないかとされる人物が、文献にいくつか載っていることもあり、今後、研究が進むにつれ、その後の紫式部がわかるかも知れません。
・内向的な紫式部は、イジメ被害者?
紫式部は、宮廷に出仕しますが、当初なかなか馴染むことができなかったそうです。
紫式部自身の内気な性格にもよりますが、先輩女房たちとの関係性が良くなかったことも起因しています。
原因は「源氏物語」。
紫式部は、当初から「源氏物語」の著者として脚光を集めており、異端を嫌う風潮は平安時代でも合ったのかも知れません。
女房仲間からは、無視の連続です。
困り果てた紫式部は、手紙で先輩女房に、仲良くしてほしい旨の手紙を出しますが効果なし。
とうとう紫式部は、体調を崩し休職して家に引きこもります。
その休職中に、源氏物語を書き続けたと言われています。
紫式部は、5ヶ月間の休職を経て復職しますが、今までと一転したコミュニケーションを試みます。
漢文を読めないフリをして、無学の自分を演じるのです。
インテリ女性を嫌う宮廷内で、周囲と上手く付き合うには、無学のフリをすることが一番だと悟ったという訳です。
もちろん周囲は、紫式部が漢文を読めることを承知していますが、彼女に親近感が湧いたのでしょう。
復帰後は、上手く周囲と付き合うようになったそうです。
今も昔も周囲と上手くやるには、それなりに頭と距離の取り方を学ばなければならないというところでしょう。
就職先も少ない時代ですので、さぞ紫式部も気苦労が絶えなかったのでは、ないでしょうか
・藤原道長との関係性
藤原道長と紫式部は、愛人関係にあり、その関係上パトロンになったのではないかという説もあります。
その時代の最高権力者でもあり、パトロンでもある道長なので、紫式部は、大いに気を遣ったと思われますが、実際には愛人関係ではなかったと思われます。
「源氏物語」の主人公・光源氏は、藤原道真がモデルとされていますが、クライアントを持ち上げるのは、現在でも常なることでもあります。
道長がパトロンになったことで、当時希少な紙が充分使用することができ、表紙の装飾も豪華になるのですから、持ち上げもするでしょう。
もちろん道長は、紫式部の才能を信頼し出資をしていますし、紫式部も道長を尊敬していることは言うまでもありません。
「紫式部日記」には、藤原道長との関係が少し掲載されているようですが、事実かどうかは定かではありません。
多少、そのような事があったのかも知れません。
しかし、藤原道長と紫式部との関係は、男女の恋愛感情というよりも信頼関係が優っていたように思えてなりません。
貴重な手記「紫式部日記」から伺える内向性
「紫式部日記」は、中宮彰子の出産間際の1008年(寛弘5年)から1010年(寛弘7年)に起きた出来事や宮中で働いている人物評、「源氏物語」の評判などを書いた日記・手紙です。
この「紫式部日記」は、当時の暮らし向きや人々の考えなどが伝わるといった資料的価値が高い日記でもあります。
また紫式部が、どのような人間であったのかを知れる貴重な資料でもあります。
特に日記の後半パーツである人物評は、紫式部の人間らしさが上手く伝わっており、人としての紫式部の魅力がつまった日記でもあります。
・活発な清少納言と枕草子
紫式部と清少納言は、対照的な性格の持ち主だったようです。
清少納言の著「枕草子」と「源氏物語」に両者の性格の違いが、よく現れています。
「枕草子」は「をかし」の文学であり、「源氏物語」は「あわれ」の文学であると評されています。
「をかし」は、趣きがあるやワクワクするといった楽しさを表現している言葉です。
「あわれ」は、しみじみとした感動や趣き深いといった哀愁を感じさせる言葉です。
つまり清少納言は、快活な表現を好む人物で、紫式部は、情緒的な表現を好む人物であったという事です。
その2人の性格を表す逸話があります。
清少納言がいた当時の宮廷内は、いつも陽気で笑いが絶えない空間であったが、紫式部が宮廷に入ると雰囲気がガラリと変わったという逸話です。
多分に創作の部分がありそうですが、当時の権力者争いもあって、紫式部が仕える中宮彰子への批判もあったのでしょうが、2人の性格の特徴を捉えた逸話でもあります。
とにもかくにも2人の性格は、かなり違うようであったのは、間違いないでしょう。
ちなみに2人の宮廷に出仕して期間は5年ほど違い、面識はなかったようです。
・「紫式部日記」はストレス発散法
「紫式部日記」には、その当時の女流人についての紫式部なりの評価を記しています。
例えば、後輩の和泉式部(いずみしきぶ)のことは、才能は評価するけども私生活が奔放であるだとか
先輩の赤染衛門(あかぞめえもん)のことは、全幅の信頼と尊敬の念を綴っていたりします。
また清少納言に関しては、漢文を読めることをひけらかしているけれど、誤字脱字や読み間違いが多いなど酷評しています。
この日記をみて、紫式部は実に陰険で、性格が悪いとする向きもありますが、果たして、そうでしょうか?
現代でも、ネットを使った人物評をおこなうことは頻繁にあります。
中には度を越した誹謗中傷で他者を不幸に陥れることも度々です。
紫式部は「紫式部日記」で、彼女らしい人物評をつづっています。
中には痛烈な批判を込めて。
しかし現代の感覚でいえば、普通の感覚であり、名前を公表しているところは現代の感覚よりも良心的でもあります。
一流の女流作家として、ストレスもあったのでしょう。
「紫式部日記」は、彼女のストレスの捌け口であり、決して善人だけが、紫式部の心に住みついていないところが、寧ろ魅力的に映る作品ではないでしょうか。
漢文からひらがなへ!紫式部が日本を変えた!
「源氏物語」は、今までの書物の概念を覆し、漢文からひらがなの普及に最も貢献した小説です。
小説というジャンルは、鎌倉時代では書物で非ずとし、嫌われ避けられていた分野です。
しかし近年では、最も輝きを増している分野の一つであり「源氏物語」は、世界中からの評価も高い恋愛小説となりました。
紫式部は、時代を超えて賞賛される一流小説家となったのです。
彼女は、鬱屈し、生没年も分からず順風満帆なる生き方ではなかったかも知れません。
しかし、この世に「源氏物語」を生み出した才能やひらがな文化を定着させたことは、日本人にとって「あわれ」よりも「をかし」が似合う結果であったのではないでしょうか。