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戦国時代の平均身長から考える秀吉・秀頼の親子の可能性
「三國無双の城」
「難攻不落の城」
と讃えられた大阪城は、豊臣秀吉が造り、豊臣秀頼が亡くなった城です。
この豊臣秀頼ですが、秀吉57歳の頃の子供で、身長190cm以上、体重161kg超の大男だったそうです。
その当時から秀吉の実息でない可能性を囁かれ、大野治長や石田三成との不倫の末にできた子供などと言われてきました。
実息でない理由として、秀吉との身長差が言われています。
豊臣秀吉が140cm〜155cmほど。
その当時の平均身長が150cm。
豊臣秀頼と秀吉の身長差は、50cm〜35cmです。
この身長差が親子ではないと言われる所以です。
その他にも親子関係が疑わしい理由として
・側室の淀殿だけ、秀吉との子宝に恵まれていること
・淀殿の妊娠時期の頃に、秀吉は肥前の名護屋にいたこと
などが挙げられます。
疑問は尽きませんが、豊臣秀吉の身長では、豊臣秀頼のような大男は、生まれないのでしょうか?
身長は、遺伝によるもので決定してしまうのか。
はたして、大男・秀頼の環境は、どのようなものだったのでしょうか。
親戚筋の身長から考える:豊臣家・織田家・浅井家
遺伝により、身長が決定されるものであるのならば、豊臣秀頼の親戚筋の身長は、どうだったのでしょうか?
豊臣秀頼に関係する親戚筋について、言及します。
・豊臣家
・豊臣秀吉
豊臣秀吉の身長は、140cm〜155cmほどと言われています。
小男のイメージが強い秀吉ですが、当時の平均身長が150cmほどですので、そこまで低すぎるといった感じではないです。
これは、ルイス・フロイスが著した「日本史」によるところが大きいでしょう。
バテレン禁止令を制定した豊臣秀吉に恨みを抱いていたフロイスは、極端に秀吉を蔑んで、記述した向きがあります。
実際には、少し小柄ぐらいの身長だったのでしょう。
・豊臣秀長
豊臣秀長は、秀吉の弟にあたる人物です。
以前は、秀長は、父親が違う異父弟と考えられていましたが、近代の研究では、実の兄弟ではなかったかと言われています。
この秀長の身長は、155cmほどと言われています。
平均身長かそれ以上の一般的な身長であることがわかります。
・織田家
・織田信長
織田信長は、長身痩躯とよく言われています。
織田信長の身長は、170cmほどだったようで、現代の日本男性の平均身長ぐらいです。
当時では、長身と言われる部類であったのは間違いないでしょう。
スラッとしてモデルのような体型であった織田信長は、ドラマや映画などに描かれているイメージ通りの人物だったようです。
・淀殿・お市の方
豊臣秀頼の母親である淀殿は、肖像から推測すると168cmほどであったようです。
また淀殿の母親である、お市の方も、それぐらいの身長だったとか。
かなりの高身長であり、大柄な女性であったのかも知れません。
秀頼の高身長は、母親の遺伝が強かったと言えます。
・浅井家
・浅井長政
豊臣秀頼にとっては、祖父にあたるのが浅井長政です。
長政の身長は182cmほどで、体重は80kgほどであったそうです。
かなり、ガッシリとした体型であり高身長です。
秀頼の身長・体重は、祖父である浅井長政の隔世遺伝であるとも言われています。
・まとめ
身長は、遺伝の要素が強く影響するのは、事実です。
親戚筋の身長を考えると、豊臣秀頼の身長などは、母親の家系に起因していると言えるでしょう。
特に祖父であった浅井長政の体型に近しいものがあるので、織田家よりも浅井家の血筋の影響が強かったのでしょう。
このことから、秀頼は、豊臣家の遺伝の影響をあまり受けていないことも、秀吉の実の子供ではないと言われる所以です。
ちなみに
四国の覇者であった長曾我部元親の身長は、180cmほどで、息子である信親・盛親も180cm超あったといいます。
遺伝で身長が決まるのであれば、長宗我部親子は、紛れも無い親子ということになります。
結局、この時代の人物の身長は、身に纏っていた兜や肖像画、伝承などによるものが多いので、実際の身長はわかりません。
豊臣秀頼も150cm程度であったとされる説もあるので、そうなると遺伝的にも豊臣家の血筋であることになります。
真相は、大阪城と共に消え去ったということでしょう。
▼この時代のお城をもっと知りたい方は▼
環境で身長は伸びるものなのか?
前述では、身長には遺伝の要素が強く作用するとお伝えいたいました。
しかし、中には低身長の親から高身長の子供がいることは、珍しいことではありません。
では、遺伝以外の要素は、何があるのかというと「環境」です。
育った環境により、身長に影響があることも分かっています。
幼少期に、食生活・睡眠・ストレスの軽減・運動習慣などの生活習慣を整えることで、身長を大幅に伸ばすことができるのです。
・タンパク質を含んだ食事を心がける
・全身を鍛えるような運動をする
・長時間の睡眠をする
これらを踏まえて、秀頼の生活を考えると
・戦国時代の主食は栄養価の高い「玄米」、おかずも魚・鳥などで、豆腐などの大豆製品を摂取できる味噌汁などであり、タンパク質も豊富にとっていた。
とくに秀頼は、贅沢な食生活をとっていたことが容易に推測されます。
・武士の嗜みである乗馬や剣などは、全身運動でもあるので、定期的に運動習慣があったのではと考えられます。
・豊臣秀頼の睡眠時間がどの程度であったかは、定かではないですが、その時代の人は、日が暮れたら寝る習慣があったことから、現代人よりも睡眠時間が長かったことは確かです。
そして公家のような教育を施されている秀頼は、ストレスもあまりなく、すくすくと育ったのではないかと推察されます。
このように豊臣秀頼は、規則正しい生活習慣の影響もあり、高身長であったのではと思われます。
よって、高身長が理由で豊臣秀吉・秀頼は、親子ではないとは言い切れないのです。
豊臣秀頼は、親が誰かでしか語られない
もし豊臣秀頼が、大阪の陣や関ヶ原は、もう少しマシな結果であっただろうとする向きがあります。
しかし、実践経験のない秀頼ですし、相手は歴戦の強者である徳川家康と家臣団です。
秀頼の性格も戦場向きの性格では、なかったようにも思われますので、結果は何も変わらなかったようにも思えます。
世間の豊臣秀頼への興味は、もっぱら身長と体重が常人離れした怪物であり、親が誰であったかに尽きます。
この若者には、経験と実績がなかったから、そのような興味しか持たれないのは仕方がないことなのでしょう。
しかし、豊臣秀頼の魅力は、二条城の会見にこそあります。
二条城の謁見にて、徳川家康は、秀頼の姿を見て、脅威を感じたと言います。
秀頼は秀頼で、家康を生涯の宿敵と見たことでしょう。
「没落した豊臣家と家臣を守り、豊臣秀吉の息子としてのプライドを持ち続ける」
この一義だけで、徳川家への恭順に逆らい、大阪の陣に走らせたのではないでしょうか。
この合戦が絶望的な合戦であったとしても、後世に何を言われようとも、母親の言いなりであったとしても。
もし豊臣秀頼が、実践経験と父親譲りの才能を発揮する期間があったならば、もう少しマシな結果であったのではと思われます。