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【豚一殿の食卓】徳川慶喜のグルメな日常

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歴史
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徳川慶喜の味覚探訪

日本人は、最初から肉を食べなかった民族では、ありません。

縄文人や弥生人と呼ばれる、古代日本人は、肉を習慣的に食べていたそうです。

では、なぜ日本人は、肉食を止めたのか?

それは675年、天武天皇が発した「肉食禁止令」によるものです。

当時、仏教が主流である飛鳥時代において、牛や豚などを食すことは、穢れ(けがれ)につながると考えられ、食封を行ったのです。

時代が変わり、開国後の幕末、牛肉や豚肉が再び脚光を浴びます。

幕末ごろから鶏肉を食べるようになると、そこから世間は、肉の旨さに気づいてしまうのです。

肉の旨さに気づいてしまったのは、庶民だけではありません。

徳川15代将軍、最後の将軍である徳川慶喜もその一人でした。

彼は、肉好きが過ぎて、周囲から「豚一殿(ぶたいちどの)」と呼ばれるほどです。

豚が好物でしたが、豚肉だけに留まらず、牛肉・鶏肉・ジビエなど、ありとあらゆる肉とありとあらゆる料理を楽しんだのです。

また、好奇心の塊である徳川慶喜は、多趣味である事でも知られています。

美食家で多趣味である徳川慶喜は、幼少期から優秀な人物でした。

そのような人物が、江戸幕府を存続させることが出来なかったのでしょうか?

そこには、慶喜なりの考えや日本を憂う気持ちに溢れていたのです。

徳川慶喜の本物志向を目の当たり

徳川慶喜は、生まれた環境からか持って生まれた才能からか、学問優秀であり武術にも長けたエリートでした。

徳川慶喜は、将軍職に就く前から英邁で知られる人物であり、天から将軍になるのが約束されているような人物でした。

まさに自他共に認める将軍。

その彼は、まさか自分が江戸幕府を終焉に迎える将軍となるとは、夢にも思わなかったでしょう。

優秀なエリートが、どこで間違えたのでしょうか?

彼に言わせれば、予定通りだったのでしょうか?

徳川慶喜の人生は、実に予測がつかないジェットコースターのような人生だったのでした。

・最後の将軍!徳川慶喜とは

・父・徳川斉昭(とくがわなりあき)の影響

徳川慶喜は、1837年(天保8年)水戸藩主である徳川斉昭の7男として生まれました。

父・徳川斉昭は、性格の苛烈さから「烈公(れっこう)」と呼ばれるほどの怖い親父でした。

また斉昭は、徹底した尊皇攘夷思想であることで有名です。

教育パパでもあった斉昭の方針により、慶喜は、学問と武術にも一生懸命励み、親の期待を裏切らない子供として成長します。

しかし、子供の成長を嬉々としていた徳川斉昭に、ある事件が起きます。

普段から政治思想の違いから井伊直弼と対立。

ついに「安政の大獄」による攘夷思想者排除がなされます。

その煽りをくらって、徳川斉昭は永年蟄居となるのでした。

これを恨みと思ったのかどうかは分かりませんが、成長した慶喜は幕政に加わりながら、井伊直弼とは政敵といった間柄がずっと続きます。

そして、水戸藩とは対立関係にあった井伊直弼は、水戸脱藩浪士による「桜田門外ノ変」で非業の死を迎えることとなるのでした。

ちなみに「烈公」徳川斉昭は、牛肉を好んで食していました

毎年、井伊家は、徳川御三家に牛肉の味噌漬けを献上していたそうですが、井伊直弼が井伊家の当主となると、この慣例を取りやめにします。

熱心な仏教徒であった井伊直弼にとって、信じられない慣習であったのでしょう。

井伊直弼と徳川斉昭・慶喜との対立は、政治思想の違いというよりも、案外、牛肉の恨みなのかも知れません。

・15代将軍・徳川慶喜の功績

15代将軍となった徳川慶喜は、外国文化や洋式兵器を積極的に取り入れ、日本を急速に近代化の道に進めます。

これは、徳川幕府を強固にするためというよりも、日本を西欧列強に負けない強い国に変化するためのように感じられます。

徳川慶喜の頭の中には、常に「徳川家のための日本」ではなく「日本人のための日本」があったのではないでしょうか。

その視点で考えると、慶喜がおこなった政策や行動が全て合点がいきます。

彼は日本の内戦を極端に嫌いました。

もし「江戸無血開城」がなければ、江戸は火の海と化し、現代の東京の姿はなかったでしょう。

もし「大政奉還」がなければ、明治時代が訪れることなく西欧列強の植民地になっていた可能性もあります。

日本を日本として存続させることに心血を注いだ慶喜は、時に周りから、腰抜けとバカにされることもありました。

優秀すぎる男の決断は、常に余人の想像の遥か先をいったものです。

その決断が、たとえ自分を貶めるものであったとしても。

徳川慶喜の決断があったからこそ、現在の日本があるのだとしたら、慶喜の決断は、正しかったということではないでしょうか。

しかし、先見の明のあるリーダーには、常に孤独がつきものです。

その孤独を埋めるために、慶喜はグルメや趣味に没頭するのです。

・徳川慶喜の趣味とグルメ

徳川慶喜の趣味やグルメは、広範囲に及びます。

特に政権を明け渡してからの慶喜は、ますます趣味に没頭します。

・油絵

・写真

・狩猟

・馬術

・語学

・読書etc

これらは、慶喜のほんの一部の趣味です。

いかに多種多芸であったことが伺いしれます。

そしてグルメ。

慶喜は、肉食家として知られていて、特に豚肉を好んで食していたのは有名です。

薩摩藩の小松帯刀に再三に度り、豚肉をねだり、小松を呆れさした程です。

その他にも、鴨なども獲って食べていたそうです。

また鳥羽・伏見の戦いで、敵前逃亡したのにも関わらず、鰻の蒲焼きを所望したという逸話もあります。

マグロの旨さを発見したのも慶喜でした。

当時、マグロは忌み嫌われていた食べ物で、トロなどは食べずに捨てられていたとの事。

しかし、夕食には必ずマグロを食すほどのマグロ好きであったそうです。

徳川慶喜のグルメ道とは、世間が忌み嫌われようが美味しいものは美味しいという、ある種の清々しさや傲慢さ、孤独さを感じさせるものでした。

そのグルメ道に通じる部分が、彼の政治指針や生き方に表れているようにさえ思えます。

徳川慶喜が追求した贅沢な晩餐会

徳川慶喜の食卓外交は、これまでの和食中心の料理から西洋料理中心の食事にシフトチェンジする大胆なものでした。

これはイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの西欧列強の要人を迎えるにあたり、料理でも日本の技術力の高さを認めさせるといった意味もあったのではないでしょうか。

日本人がフレンチ料理を作るとどうなるか?

あるいはグルメ将軍・徳川慶喜が西欧列強に仕掛けた挑戦状でもあったのでしょう。

徳川慶喜は、平和主義者です。

戦いのフィールドを料理に変え、料理で決着を求めたのかも知れません。

・とある日の晩餐会にて

徳川慶喜の晩餐会は、フレンチ中心の贅沢であり、濃厚な料理中心でした。

この西欧式晩餐会が、日本で初めておこなわれた本格的な饗応とされています。

料理の中身は、トリュフ添えや鶏肉ササミ、牛フィレ肉、旬の果物を使ったデザートなど、慶喜らしいメニューの数々です。

このフレンチ料理中心の晩餐会、西欧式外交が功を奏して、日本は西欧列強から一目置かれる存在になったのです。

徳川慶喜は、料理で日本の素晴らしさを伝えることができ、料理で世界と渡りあったのです。

これは、グルメ将軍・慶喜でしか成し得ないことでは、なかったのではないでしょうか。

・徳川慶喜のコーヒー

コーヒーは、幕末から愛飲される代表的な飲み物です。

幕末当時は、フランス風のコーヒーであったので、現代のエスプレッソ式の濃厚なコーヒーではなかったかも知れませんが、植民地にインドネシアなどがあったことを鑑みると、スマトラの高級種を使用していたのかも知れません。

インドネシア・スマトラは、スパイシーでコクのある風味が特徴的なコーヒーですので、当時もコクのある風味豊かなコーヒーを飲んでいたのでは、ないでしょうか。

食通、慶喜ともなると、ローストも深煎りにしていたかも知れませんし、フードペアリングにもこだわっていたかも知れません。

名君か?暗君か?グルメ将軍の真実

よく徳川慶喜の鳥羽・伏見の戦いにおける敵前逃亡は、織田信長の金ヶ崎の退き口を比較されます

一方は腰抜け、もう一方は、英断などと評されます。

はたして徳川慶喜は、本当に腰抜けで暗君だったのでしょうか?

鳥羽・伏見の戦いは、「討幕の密勅」と「大政奉還」のセットで考えなければ、慶喜の不可解な行動がみえてきません。

政権を天皇に譲り、徳川家を一つの機能として成立させる。

そのような考えが慶喜には、あったのかも知れません。

それが討幕の密勅により戦乱ともなれば、明治時代を迎えることは絶望です。

織田信長が退かなかったら、戦国時代は後100年続いていたでしょう

徳川慶喜が敵前逃亡しなければ、100年、時代は遅れていたでしょう。

当時の幕府軍は、日本最高の戦力です。

その気になれば、鳥羽・伏見の戦いに勝利することもできたはずです。

優秀な徳川慶喜は、あえて逃げることで内戦を回避した功労者です。

例え自分が腰抜け、暗君と呼ばれようとも、日本を守ることに懸命な人物は、他にいたでしょうか。

日本のリーダーとして、誰よりも日本の平和を願う人物。

それが名君・徳川慶喜の真の姿では、ないでしょうか。

時代を救ったヒーロー慶喜は、76歳という長命で、この世に別れを告げました。

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