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【琉球王国のキングメーカー】尚巴志(しょうはし)の懐機(かいき)

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歴史
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琉球王国統一のキングメーカー!尚巴志と懐機の戦い

キングメーカーとは、政治の世界でよく使われる言葉です。

要約すると、表の権力者を裏で操るフィクサーのような存在で使われる言葉です。

あまり良い意味で使われることがない言葉ですが、もう少し純粋に王にさせるべく、奮闘した側近といった意味も含まれます。

中国三国時代では、劉備における諸葛亮孔明のような存在といえば、分かりやすいでしょうか。

そして、琉球王国の英雄・尚巴志にもキングメーカーが存在していました。

その名は、懐機(かいき)

時代で言えば、室町時代末期の出来事です。

孔明が劉備に中華統一の夢を託したように、懐機は尚巴志に琉球王国の統一を託しました。

光の存在・尚巴志の陰日向になり、懐機は、何を目指したのでしょうか?

琉球王国の歴史を分かりやすく解説するとともに、尚巴志と懐機の目指した”沖縄”について、お伝えしていこうと思います。

琉球王国統一まで!尚巴志の偉業

一領主の身分に過ぎなかった尚巴志は、激動の時代を制し、琉球を一つの国にまとめることに成功した人物です。

彼の偉業を讃え、今では尚巴志の軌跡をなぞるマラソンコースとして有名です。

また、約450年続く琉球王国は、独自の発展を遂げ、今の沖縄文化の礎を築きました。

例えば、沖縄独自の楽器「三線(さんしん)」や独自の蒸留酒である「泡盛(あわもり)」も、この頃から作られたとされています。

尚巴志の生きた時代背景を説明すると共に、彼の強さの秘密について、肉薄していきます。

・時代は三山時代

尚巴志が生きた時代は、琉球でしのぎを削る3つの勢力がありました。

三山時代(さんざんじだい)と呼ばれる時代で、中国でいうところの三国時代といったところでしょうか。

三山それぞれ王を名乗り、北山王・南山王・中山王と名乗り、中国(明朝)とそれぞれ朝貢貿易を行い、覇権争いを繰り返していました。

朝貢貿易とは、世界の中心は中華であるという中華思想に基づいて、臣下の礼をとった国に対して、献上した物品に対して、数十倍もの物品を返礼するといった貿易です。

この貿易で、室町時代の3代将軍・足利義満は、莫大な利益を得たと言われています。

この時代の三山の王が、それぞれ中山王・武寧(ぶねい)南山王・他魯毎(たるみい)北山王・攀安知(はんあんち/はねじ)です。

この激動の時代の中、尚巴志は、地方の一領主の長男として生まれます。

尚巴志は、とても脆弱な勢力基盤からスタートしたのです。

・奇跡の英雄:尚巴志の登場!

尚巴志は、尚思紹(しょうししょう)の息子として、1372年に生まれます。

身の丈は150cmほどの貧相な体躯の持ち主でしたが、幼少期から優秀であり、漢気もあり、民衆から絶大な信頼のあるリーダーでした。

1402年、島添大里グスクを陥落し、勢力を拡大しました。

グスクとは、本土にあるとは趣の違う「城」とも「聖なる場所」とも言われています。

その後、わずか5年も経たない内に中山王の武寧を攻め滅ぼします。

尚巴志の強さの秘密は、に注目したからではないかと言われています。

彼の領土は、良港に恵まれていました。

その港を利用し、交易を拡げ、経済力を高め、得た金銭で鉄を大量に購入したそうです。

この鉄が、軍事の際の武器となり、農業に使用する農具となり、軍事・国力を高めました。

わずか数年で中山を獲った尚巴志は、そのまま中山王になるのではなく、父である尚思紹に即位して貰い、自分は領国運営に専念します。

この中山の頃に出会ったのが、明から派遣された高級官僚・懐機なのでした。

・尚巴志の采配と政治的手腕

尚巴志が、中山を狙った理由は、さまざまな説もあるでしょう。

その中で、地理的な理由も大きく影響しているのではないでしょうか。

琉球王国設立のために必要なことは、朝貢貿易による利益で国力を高め、国として存続させること。

その為には、明に琉球の王であることを認めてもらわなければなりません。

朝貢貿易の形上、琉球は明の属国ということになりますので、明の使者である柵封使(さくふうし)をお迎えし、王であることの認可を受ける必要があります

この柵封制度は、王が交代する度に行われ、柵封使をお迎えする時には、国をあげての一大イベントでした。

そこで、尚巴志が目をつけたのが「首里」です。

彼は、長い年月をかけて「首里」を琉球国の象徴のような場所にするべく、注力します。

そして、明との頻繁な連絡や取り次ぎ、柵封使を迎える儀式に明るい優秀な外交官が必要になります。

この外交官として白羽の矢が立ったのが「懐機」という人物でした。

明の高級官僚から琉球国統一の立役者!懐機とは?

尚巴志が中山王になる前の外交官は、「王茂(おうも)」が担当していました。

彼は、中山専任の外交官というよりも、明との取り次ぎ係として、中山や南山に雇われていた職業外交官といったところでしょうか。

その「王茂」から引き継いだのが、中国から琉球に移りこんだ「懐機」とういう傑物です。

懐機は、尚巴志が中山王になると中山専任の外交官として活躍します。

尚巴志の掛け替えのないブレーンとして才能を発揮し、一生涯、琉球王国に、その身を捧げるのでした。

・キングメーカー懐機の存在

懐機の生没年は不詳です。

謎の多い人物ですが、明にいたころから高い身分と知識を有しており、明皇帝とも直接交渉ができるほどの人物でした。

彼は、尚巴志が三山統一以前から仕えており、外交面・内政面、そして軍事面にて、大いに尚巴志を支えました。

懐機で有名な事業としては、首里城の造営や長虹堤という海上道路を設置して、自由な往来を可能にした土木技術・知識が特に有名です。

尚巴志は、懐機という優秀なブレーンを得たことにより、残りの南山・北山を攻め滅ぼし、ついに琉球と一つの国にまとめることが出来ました。

・明との貿易から琉球王国の在り方まで

懐機は、第一尚氏の国相として、5代国王である尚金福(しょうきんぷく)王まで仕えました。

中国・明との貿易の他、李氏朝鮮・スマトラ島やジャワ島などの国と通交し、琉球王国の繁栄に大いに貢献しました。

また、首里城には、彼が指揮したとされる人工の池(龍潭(りゅうたん))。

そして、樹華木(じゅかぼく)を植えて安国山(あんこくざん)などの整備にあたりました

マルチな才能を見せ、琉球王国の立役者である懐機ですが、どのような人物で、どのように亡くなったかなどの詳細を記す資料は、一切ないのです。

まさに尚巴志を王にするために存在し、尚氏を存続するために生きながらえた表舞台には絶対出てこないキングメーカーであったのです。

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「初めて出会った機会を縁と言って、最後まで寄り添った機会を運命と言う」

と誰かが言いました。

懐機にとって、偶然、中国から沖縄に職務として訪れた場所なのかもしれません。

そして尚巴志という縁ができ、尚巴志を王国の王にすることがライフワークだったのかも知れません。

尚巴志は、67歳でこの世を去りました。

懐機は、尚巴志が亡くなっても、第一尚氏を盛り立てるため、精力的に活動します。

琉球王国を、燦々と降り注ぐ陽光のような世界にしていく。

もしかしたら、尚巴志と懐機が出会ったときに、このような約束を交わしていたのかも知れません。

尚巴志と懐機に想いを馳せて、沖縄を巡ってみてはいかがでしょうか。

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