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松本城は、なぜ黒いのか?
松本城は、その美しい姿と特徴的な漆黒の天守閣で知られる日本の宝です。
城のイメージと言えば、白などの明るい色合いが一般的です。
では、なぜ松本城は、黒いのでしょうか?
そこには、石川数正の存在が深く関係しています。
今日まで、黒の美しい外観を愛でることができるのは、様々な人物の尽力の賜物です。
何度も取り壊しの危機にあった松本城。
その危機を救った2人の人物と松本城が黒い理由などをお伝えいたします。
石川数正は、なぜ裏切ったのか?
石川数正は、戦国時代の人物で徳川家康の側近中の側近でした。
しかし突然、豊臣秀吉に寝返った人物としても有名です。
家康の側近中の側近であった数正。
忠義の臣であった数正。
数正の裏切った理由は、今持ってよく分かっていません。
秀吉に魅力を感じたのか。
大名として名を馳せたかったのか。
諸説ありますが、秀吉方に寝返ったのはフェイクであり、実は家康のスパイであったという説もあります。
人間は、それほど合理的にできているわけではないので、最終的には、自分の感情で判断したのでしょう。
石川数正の出奔は、今後も謎のまま、史を賑わす話題となることでしょう。
・石川数正とは
石川数正は、家康より10歳ほど年長の徳川家の大古参です。
彼の代表的な活躍は、家康の嫡男信康と正妻築山殿の今川氏真からの奪還でしょう。
交渉術に長けた数正は、徳川家の外交担当として、大いに活躍していました。
小牧・長久手の戦い後における秀吉との交渉役にも、数正は抜擢されます。
豊臣秀吉によるヘッドハンティングやプレゼント癖は有名で、石川数正も勧誘されます。
当然、秀吉の勧誘を断ると思われていた数正は、突如出奔、家康の下から離れます。
秀吉配下の武将となった数正は、長野県にある松本藩の城主となります。
一番慌てたのが家康。
徳川体制の全てを知る男が、秀吉側についたので、新たに体制を変更する羽目になったのでした。
もう後戻りが出来ない数正は、松本の地で新たに城を造り、秀吉への忠節を城によって表したのです。
・松本城は石川数正が黒くした
お城には、黒い城と白い城の2種類があります。
一般的に、豊臣時代に建てられた城は黒色、徳川時代に建てられたの城は白色とされています。
豪華絢爛の豊臣体制では、漆などで黒く染める天守閣が人気でした。
それが質素倹約の徳川体制になると、比較的コスパの良い白素材が重宝されるようになったのです。
また豊臣恩顧の武将は黒色、徳川恩顧の武将は白色との説もあります。
代表例では、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤清正が建造した熊本城は、黒基調です。
徳川家康の娘婿である「池田輝政」が築城した姫路城は、白基調です。
明確に城で秀吉側・家康側に分けることはないのですが、黒基調にするか、白基調にするかは、最終的に、城主のセンスや経済事情に依るところが大きかったようです。
石川数正は秀吉への忠節を表す意味もあり、漆黒の城を選んだ。
これに尽きるかと思います。
松本城を救った人物
松本城は、今までに2度ほど、取り壊しの危機にありました。
明治時代以降、お城は維持費やメンテナンスなど費用が掛かることから全国的に取り壊されていきました。
松本城も、この流れの中、取り壊されそうになったのです。
しかし、松本城を何とか後世に残そうとする2人の人物が現れたのです。
松本城は、この危機を回避したことにより、現在でも有数な国宝の城として現存することができたのでした。
・松本城は、博覧会の場所になった
1人目は、市川量造(りょうぞう)という人物です。
松本城は、明治時代に天守の取り壊しが進み、競売にかけられます。
そこで市川は、松本城で博覧会を開くという企画の建言書を提出します。
明治6年第1回博覧会が開催されると、国の内外から松本城に来場し、その数は一日平均4000から5000人だったそうです。
この企画は、大変盛況であったので、明治9年まで、通算5回も開催されました。
市川量造は、博覧会の収入で、競売にかけられた松本城を買い戻しに成功。
博覧会の企画がヒットしたことにより、それ以降も松本城の取り壊しもなくなったそうです。
・松本城の隣に学校が設立された
2人目は、小林有也(うなり)という人物です。
博覧会終了以降、松本城は管理が行き届かなくなり、城のあちこちに老朽化が進み、大規模な修理が必要となる事態に陥ります。
そこで松本城本丸内にあった中学校の校長であった小林は、松本天守閣保存会を立ち上げ、人々から募金を募ります。
この基金は、松本城の今後を憂う全国の有志により、相当額の基金となりました。
この募金によって、松本城は修繕することができ、松本城崩壊の危機を免れたのでした。
まとめ:松本市民に愛され続ける国宝・松本城
松本城は、石川数正が自分の趣向もありましたが、豊臣秀吉の恭順の証として漆黒の城を造りました。
明治時代以降も松本城は、取り壊しの危機が訪れましたが、市川量造、小林有也という2人の活動により、なんとか乗り越えることができました。
松本城は、その黒い姿と美しい景観だけでなく、松本市民にとっては特別な存在です。
市民は、松本城を日常の風景として受け入れており、松本のシンボルとして当たり前の姿です。
城の周辺では、今なお、市民の憩いの場やイベントが開催され、多くの人々が訪れています。
松本城は、ただの観光名所ではなく、自分たちの一部として心から愛されているということなのでしょう。
そのため、城の維持にも情熱を傾け、日々の床掃除のボランティアや毎年の漆塗りにも取り組んでいます。
故郷の象徴であり、誇りでもある松本城は、未来の世代にも受け継がれて、これからも輝き続けるでしょう。
人々の想いが詰まった美しい宝である松本城を楽しみに、また長野県はワインの名産地として有名です。
次の旅行に長野県観光はいかがでしょうか?