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【日本史】シーボルトが持ち込んだピアノ・持ち帰ろうとした日本地図

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歴史
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シーボルトはオランダの諜報員だったのか!?

海外から見ると、不思議な文化を醸成している興味深い国。

それが古来の日本のイメージでしょう。

江戸時代は、鎖国制度が続く時代で、海外に日本の情報が皆目入ってこないという状態です。

当時のオランダは、国の事情もあるのですが、シーボルトというドイツの片田舎で医者をしている野心家をオランダ人と偽って、日本に送ります。

有名なシーボルト事件は、シーボルトをよく知る日本人は冤罪とし、幕府役人はシーボルトをオランダの諜報部員とします。

はたして、どちらが正しいのか?

またシーボルトは、日本にピアノを持ち込んだ人物として有名です。

この日本最古のピアノは、シーボルトのピアノとして現存しています。

歴史があり、重厚感・高級感のある楽器でもあるピアノですが、いざ弾くとなるとハードルが高いと苦手意識を植え付けてしまうのも特徴的な楽器です。

今回は、シーボルトの歴史だけではなく、ピアノに苦手意識がある方向けにハードルを少し低くする内容も交えて、言及していこうと思います。

日本に魅了されたシーボルトに触れ、日本と同様に愛したピアノにも触れ、悠久の歴史を感じてみませんか。

シーボルトから見た日本という国

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトという人物は、名前だけは知っているが、何をした人なのかを知らない人も多いのではないでしょうか。

シーボルトとは何者か。

簡単にシーボルトに触れていこうと思います。

・シーボルトとは何者か?

シーボルトは、1796年にドイツの医学者の息子として生まれました。

シーボルト一家とは、医学会に多数功績を残した名門貴族であり、シーボルトもエリート意識の塊のような人物でした。

ヴュルツブルク大学医学部に入学したシーボルトは、植物学に目覚め、研究を繰り返します。

これが後の日本への興味と変わっていくのです。

大学を卒業後、シーボルトは町の開業医を営むのですが、エリート意識の塊である彼に開業医は向かなかったのでしょう。

2年を経たずして、廃業します。

自分は選ばれた人間であり、一介の町医者で終わりたくないといったプライドもあったのでしょうか。

そうこうすると、叔父の旧友からジャカルタへの海外派遣を伴うオランダ領東インド陸軍外科少佐という役職を斡旋されます。

名門貴族のプライドをくすがられたのでしょうか。

海外派遣に魅力を感じたのでしょうか。

二つ返事での、この申し出を承諾します。

これが転機となり、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの大冒険が始まるのでした。

・憧れの日本を目指すシーボルト

オランダ領東インド陸軍外科少佐として、ジャカルタで勤務していたシーボルト。

医師としての高い技術と見識、植物学への造詣が評価され、時の総督の目に留まることになります。

当時、オランダはフランス軍に攻められ、一旦はオランダ領であったジャカルタ(バタビィア)もフランス領になったが、ナポレオンが冬将軍によって敗れるとジャカルタもオランダ領に服するという経緯がありました。

新生オランダは、利益が大きい日本との貿易に焦点をあて、財政立て直しを目指していました。

特にヨーロッパでは、空前の園芸ブームが巻き起こっていた時期であり、日本の珍しい植物が重宝されていた時代でもあります。

ここで、日本にも興味があり、植物への造詣が深く、西欧の医術を教えれることで日本にとってもwin-winである人物でもあるシーボルトに白羽の矢が立ったのでした。

日本への渡航を打診されたシーボルトは、もちろんイエスです。

・入国審査での一幕

ジャカルタから出航して40と数日。

途中、嵐に遭遇するなどのアクシデントがあるものの無事、長崎に到着したシーボルト。

オランダ語話すことが出来ない気高きドイツ人シーボルトは、長崎の役人にオランダ語に訛りがある山育ちのオランダ人(オランダには山がない)と身分を詐称します。

重複しますが、江戸時代は鎖国制度をとっており、オランダ人以外は入国不可です。

入国するには、仕方がない嘘だったのです。

シーボルトは、一般的な学者然としたイメージとは、およそ、かけ離れた性格と胆力の持ち主です。

学生時代は、決闘すること30と数回。

負け無し、無敗の男だったのですから、相当な気力と胆力・体力の持ち主なのです。

シーボルトの気迫が勝ったのでしょう。

長崎の役人も圧倒され、シーボルトは念願の日本の地に舞い降ります。

・シーボルト事件

最新の西欧医学に明るいシーボルトの評判を聞きつけた日本の医師たちは、足繁くシーボルトの下を訪れます。

やがて、医学や諸科学に精通し、教授できる人材として日本各地の診察と薬草採取の許可が降ります。

許可が降りた当初は、長崎の蘭方医宅で講義診療を行い、数々の西洋医学を教えます。

次第に門弟もでき、日本の情報や植物の採取への手伝いなども惜しまず協力してくれるようになりました。

シーボルトの日本研究は、本格化していったのです。

1824 年、医学私塾・診療所 鳴滝塾を創設し、150名もの蘭学・医学を志す日本の秀才たちが集いました。

日本への滞在任務期間5年。

日本に多大なる影響を与えたシーボルトですが、その間、日本の研究と共に最愛の日本人女性「オタクサ」こと、お滝と娘・お稲との生活を満喫する日々でした。

シーボルトにとって、日本は忘れることが出来ない第二の故郷になったのです。

オランダの諜報部員という側面を持っているシーボルトは、その時どのように感じ、心の葛藤が生まれたのかどうかは、想像するしかないでしょう。

運命の悪戯か、シーボルトが乗船した船が、暴風雨に遭遇し、海岸に乗り上げて出航が延期することになります。

ここでシーボルトが持ち帰ろうとした禁制日本地図などが見つかってしまうのです。

シーボルトは、出島の拘束され、厳しい拷問を受けます。

その厳しい拷問は、シーボルトの高弟にまで及んだという。

ついに1829年、シーボルトは国外追放となり、二度と日本に渡航できない処置を下されるのでした。

これが世に言う「シーボルト事件」の概要です。

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シーボルトのピアノ

シーボルトは日本にピアノを持ち込んだことでも有名です。

シーボルトが持ち込んだピアノは、シーボルトのピアノと称され、今でも博物館に貯蔵されています。

このピアノという楽器ですが、とても難解な楽器です。

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・シーボルトが持ち込んだもの

シーボルトが親交の証として、熊谷五右衛門義比(くまやごえもんよしかず)にピアノを贈っています。

その他にも、東インド会社では禁止とされていた薬品なども日本に持ち込みました。

また蘭方医として、シーボルトは、自身の知識を余すことなく日本人に教え伝えました。

シーボルトが持ち込んだものは、間違いなく日本の医療や文化の進歩に一役買ったのです。

そして、シーボルト自身も日本での思い出や持ち帰ったものを広く世界に発表した人物であり、当時、日本と海外の橋渡しをした第一人者であったことも間違いのない事実なのです。

親日家か?諜報員か?シーボルトの想い

俗に言う「シーボルト事件」で国外追放となったシーボルトですが、日本を忘れることが出来ず、あらゆる方法で日本への再来日を目指します。

その間、オランダのみならずヨーロッパに日本から得た知識や植物などを紹介し、日本に関する本なども著しています。

シーボルト三部作と呼ばれる「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」は、日本を紹介した文献として特に有名です。

そして念願叶って、来日したのは国外追放から30年後の1859年です。

再びの日本、滞在期間は3年ほどでした。

その間、幕府の要請に応じて、江戸にて蘭学などを教授しますが、最終的には解雇と言う形で日本を去ります。

研究対象であった日本、愛してやまない日本、シーボルトにとって、それ以上に膨れ上がった思いは、三度目の訪日を切望・画策しましたが、実現しませんでした。

1866年、シーボルトはドイツのミュンヘンにおいて、70歳の生涯閉じたのでした。

紫陽花(あじさい)の花言葉は、辛抱強い愛情・元気な女性・寛容などがあります。

母の日によく贈られる花ですが、日本人にとっては家族への愛などをイメージしやすい花となっています。

シーボルトは、紫陽花を紹介する際、このようなイメージを想起したのでしょう。

「オタクサ(日本の妻の愛称)」と呼んで、ヨーロッパに紹介したという。

親日家でもなく、諜報員でもなく、いわゆる新しい日本の可能性を見出した「新日家」。

それがシーボルトの素顔では、なかったのでしょうか。

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