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【心躍らせて念仏】空也・一遍・ええじゃないかの形

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歴史
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踊りは世界を救う

古来より天変地異など、人間にはどうしようもない事が起きると、人々は、あらゆる方法で神に祈りを捧げ、天からの恵みを願ってきました。

岩戸伝説」にみる天照大御神(あまてらすおおみかみ)への踊りも、天災に対する神々への祈りでした。

この神々への祈りを、もっと庶民に分かりやすくしたのが「空也」です。

そして空也に影響され、踊り念仏を完成したのが「一遍」。

思い通りに行かない世の中で、一心不乱に踊り狂う「ええじゃないか」も「空也」、「一遍」の思想と根っこの部分は同じように感じます。

踊りに言葉を乗せることで、天に許され、心豊かな生活が創り出され救われると信じていたのです。

踊り念仏やええじゃないか運動が起きた時代、踊りは単なる娯楽やエンターティナーではなかったのです。

空也や一遍は、宗教と踊りをどのように一体化させたのでしょう。

そして、ええじゃないか運動は、どのような背景から起こったかを詳しくみていきましょう。

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踊り念仏の創始者は市聖(いちのひじり)空也なり

空也は、得体の知れない人物でした。

それは、空也自身が、自分の氏素性などを残さなかったので、実際どのような人物だったのかを知るよしもなかったからです。

空也の宗教は、宗派の垣根を超えた活動家といった意味合いが強く、自身を語ることを嫌っていたのかも知れません。

また、空也自身は、自ら宗派を興すこともなかったので、一介の宗教者として存在したかったでしょう。

空也の軌跡を振り返ってみましょう。

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・空也の布教活動

空也の生没年は、903年〜972年10月20日です。

平安時代中期の僧侶ですが、当時生没年が分かっているということ自体珍しく、そのことから身分の高い人物であったことが推測されます。

空也の出身には、さまざまな憶測がありますが、空也生存中も皇室出身ではないかと噂されています。

中には醍醐天皇のご落胤という噂もあります。

本人自身が、出生について語らなかったので、噂の域をでませんが、相当な身分ではあったのでしょう。

922年ごろに尾張国分寺にて出家し、空也と名乗ります。

彼は、宗教が一部の権力者のためにあることに疑問を抱き続けていた人物です。

民間にこそ、宗教が存在するはずが、権力や権威の道具にされていることに不快感を持っていました。

そこから、諸国を廻る在俗の宗教家として活動し、多くの社会事業に貢献します。

在俗の宗教家である彼は、誰でも理解できて、ご利益があるように口称念仏を提唱します。

すなわち「南無阿弥陀仏」を口で唱えれば、人々の心が救われ、ご利益があるといった提唱です。

この口称念仏が、貴族から一般大衆までの幅広い層に受け入れられます。

民間に宗教を拡めることに成功するのです。

この活動から空也を「市聖(いちのひじり)」、「阿弥陀聖(あみだひじり)」、「市上人(いちのしょうにん)」と呼ばれるようになりました。

権威主義を嫌う民間のヒーロー。

それが空也であったのです。

また、口称念仏が発展し、踊り念仏になりましたが、空也自身が踊り念仏を提唱したという記録がないのですが、民間に拡く浸透するために、踊りを加えたことは、想像に難くないでしょう。

この空也の活動に深く影響されたのが、鎌倉時代に時宗を興した一遍とされています。

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・六波羅蜜寺にみる空也像

空也で特に有名なものは、六波羅蜜寺が所蔵する「木造空也上人立像」でしょう

これは、重要文化財に指定されている程の芸術作品で、製作者は仏師・康勝(こうしょう)です。

この康勝の父は、金剛力士立像を造仏した運慶です。

偉大な運慶とは一線を画す写実的でモダンなアートである「木造空也上人立像」。

康勝も空也と同じように権威を嫌った革命児であったのでしょう。

康勝が、空也像を造ったのも、何かしら共鳴する部分があったのかも知れません。

70歳でこの世を去った空也の最後の場所が六波羅蜜寺です。

六波羅蜜寺は、京都市東山区にある寺院であり、創建者は、空也とされています。

この六波羅蜜寺には、空也像もあり、空也の生き様を感じられる場所でもあります。

空也に魅せられた遊行上人

遊行上人こと一遍は、鎌倉時代に活躍した人物です。

一遍は、とにかく全国へ飛び回る精力的な活動家でした。

修行僧として、諸国を駆け巡る中で、一遍は信心について深く考えさせられます。

一遍といえば、空也の口称念仏にアレンジを加えた「踊り念仏」が挙げられます。

踊り念仏こそ、一遍にとって、宗教のあるべき形だったのでした。

・一遍とは

一遍は、伊予国道後の地で河野家という没落武家の出です。

10歳ごろに出家して、一度実家に戻りますが、俗世が嫌になったのか再び出家します。

そこから諸国を巡礼する旅に出ます。

巡礼先で出会ったのが「融通念仏」。

これは念仏を合唱する事で精神が救われるといった教えです。

この融通念仏をアレンジしたのが、踊り念仏に発展したとされています。

この踊り念仏は、信心がない人間にも信心を起こす為にするには、どうすれば良いのかを考えた一遍なりの答えなのです。

念仏を唱えるだけで極楽浄土に行けるという時宗は、一般大衆にうけて、大流行するのです。

一遍も又、自分の教義を記した書物を残すことなく、教団として組織化せず、1人の宗教家として、この世を去るのでした。

ええじゃないかの爆発的人気

「ええじゃないか」が起こった時代は、江戸幕末期に起こった一種の民衆運動です。

ええじゃないか運動には、百姓一揆のような、何かの目的や主張があるような運動ではありません。

「ええじゃないか!」と叫びながら、人々が踊り狂うといった祭りのような活動です。

愛知県辺りから始まったとされる「ええじゃないか」は、全国に拡がり、史上空前の大ヒットとなるのです。

・世直り運動としての、ええじゃないか

よく世直し運動として、百姓一揆、学生運動、デモ活動が挙げられます。

しかし、ええじゃないか運動は、その種の目的を持たず、世直り運動の例として挙げられます。

当時、約300年の江戸幕府が崩壊しつつあり、長州が幕府に対し、戦争を仕掛け、人斬り・盗賊が巷を賑わす時代でした。

また強引な開国により、現代よりも酷いインフラで、物価が高騰し、生活ができない状態が続きました。

そのような、どうしようもない生活不安から踊ることで、人智ならざる救いを求めたのです。

一部に徳川幕府転覆を狙う雄藩が、ええじゃないか運動を引き起こし、世情不安を煽ったとする説もありますが、ええじゃないか運動にテロリズム的な要素がないことから、現代では否定されていることが大半です。

どうしようもない今の生活を変えることができない状況の中、空也や一遍が唱えたように、極楽浄土・来世に救いを求める踊り。

「ええじゃないか」という言葉は、仏教の言葉で「南無阿弥陀仏」であったのかも知れません。

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魂を震わせる表現者たち

心 が変われば 態度が変わる。
態度 が変われば 行動 が変わる。
行動 が変われば 習慣 が変わる。
習慣 が変われば 人格 が変わる。
人格 が変われば 運命 が変わる。
運命 が変われば 人生 が変わる。

ヒンドゥー教の教え

空也も一遍も、この言葉を日本の大衆に実践させた先駆者です。

まずは「唱える」ことで信仰心が生まれ、「踊る」ことで信仰心の楽しさを表現した方法は、日本人の思考にもマッチしたのでしょう。

空也も一遍も、一介の活動家として、多くを語らなかったですが、唱えること・言葉に出すこと・踊りで表現することで感謝や救いを求める方法は、今なお、日本の文化に根付いています。

ええじゃないかを興した人物も空也や一遍と同様に、踊ることで救いや感謝を表したのでは、ないでしょうか。

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