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【奈良時代で最も影響力を与えた人物】強欲のマモン・道鏡が犯したのは純愛の罪か?

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歴史
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奈良時代は、仏教と政治が混じり合った時代です。

飛鳥時代よりも仏教が民間にまで浸透し、大宝律令という法律が整備され、そして和同開珎という通貨を用いることで流通が発展し貨幣文化が醸成されました。

つまり、日本が文化的な国家として成立された時代。

それが奈良時代なのです。

また、奈良時代は、仏教が芸術や文化にも大きな影響を与え、後の天平文化としても知られています。

言い換えれば、仏教というものが基盤にあり、そこで芸術・文化にまで昇華した時代であり、政治にまで介入した時代でもあるのです。

仏教と政治が絡み合った複雑な時代である奈良時代。

この時代の寵児として知られるのが天下の三悪人・道鏡です。

天下の三悪人とされているのは「平将門」「足利尊氏」そして「道鏡」です。

ですが、平将門や足利尊氏は、時代が進むにつれ、悪人というレッテルが剥がれつつあります。

だが、しかし道鏡。

時代が進み多様な価値観を良しとする現代においても、なお悪人であり続けます。

なぜ、これほどまでに世間の嫌われ者なのか。

それは、彼の強欲にあります。

そして、孝謙天皇(称徳天皇)との恋の駆け引き。

女性を利用し、私欲を肥やした最低のクズ野郎というのが一般的なイメージです。

この強欲の罪により、いまだに道鏡は断罪され続けられているのです。

奈良時代の象徴的な人物である道鏡の半生を言及するとともに、そもそも強欲の罪と使役である悪魔・マモンについてもご紹介します。

この記事を読むことで奈良時代がどのような時代だったのかの一考にしていただければ幸いです。

▼平安時代の華麗なる文学はこちら▼

強欲の罪とは、キリスト教、特にカトリック教で用いる言葉です。

人間が罪に導いてしまうであろう欲望や感情のことを指します。

その罪は7つあり、キリスト教は、これらを総称して「7つの大罪」と呼ばれています。

この7つの大罪とは

  • 嫉妬
  • 傲慢
  • 怠惰
  • 憤怒
  • 強欲
  • 色欲
  • 暴食

ちなみに罪の重さは、下にいくほど罪深くなります。

そして道鏡が、なぜ強欲であるかというと、欲しいものは、どのような手段を厭わず、自分の思い通りに手に入れ、その欲望には際限がないからです。

世間の大半の人が道鏡を想起する時のイメージです。

又、7つの大罪には、その罪に相応しい悪魔がいます。

表にまとめると

大罪悪魔
嫉妬リヴァイアサン
傲慢ルシファー
怠惰ベルフェゴール
憤怒サタン
強欲マモン
色欲アスモデウス
暴食ベルゼバブ

この7つの大罪・強欲の罪の悪魔であるマモンとは、一般的には「富」や「金銭」を意味する言葉なのですが、時が経つにつれ、不正なる富という意味に変換され、醜悪なる悪魔となったのです。

東西南北を支配する四大悪魔とされ、その実力は魔王・ルシファーを凌ぐほど。

しかし、性格は低俗にして卑しい心根の持ち主であるとされています。

また、マモンが転じて「拝金主義」や「マモニズム」という言葉が誕生したとのこと。

天皇の寵愛を利用し、不正なる富や権力を我が物にした道鏡。

その性格は、自分の欲だけに忠実なる卑しい心根の持ち主。

まさに道鏡のイメージにピッタリの悪魔ではないでしょうか?

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世間の嫌われ者である道鏡は、どうしてこれ程嫌われているのでしょうか?

道鏡の半生と彼が犯した罪の数々を、この章ではお伝えします。

私利私欲の権化である奈良時代の怪僧は、如何にして頂点に立とうとしたのか。

乞うご期待。

道鏡の前半生は謎に包まれています。

一説に蘇我氏との政争に敗れた物部氏の一派である弓削氏の出身であると言います。

ゆえに弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれています。

若い頃、葛城山で苦行を重ね呪力や神通力を持ったという道鏡は、その後、法相宗の高僧・義淵の弟子となり仏門に入りました。

また、東大寺の別当である良弁に梵字を学び、習得したそうです。

と、ここまでは多少、自分を大きく見せようとするきらいがあるものの普通の青年である道鏡ですが、彼の様子を一変する人物が現れます。

道鏡は、孝謙天皇という女性に出逢ってしまうのです。

この孝謙天皇、父親が聖武天皇で母親が藤原家系の光明皇后という高貴な生まれです。

孝謙天皇時代、光明皇后が存命であり、同じ藤原家ということで藤原仲麻呂が権勢を奮っていました。

藤原仲麻呂が政治の世界を牛耳り、何も出来ない自分。

それが嫌になったのか、光明皇后が病に伏せると大炊王(後の淳仁天皇)に天皇の座を譲ります。

淳仁天皇は、藤原仲麻呂が推挙した天皇で、益々、仲麻呂のやりたい放題の世の中になります。

758年、藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝 という名を賜り、得意の絶頂になるのです。

孝謙天皇自身は、上皇という立場になった訳ですが、上皇になっただけのお飾りの立場に歯痒い気持ちがあったのでしょう。

760年、光明皇后が亡くなると孝謙上皇は、大きな後ろ盾を失った恵美押勝との対立姿勢を示します。

そのような政治争いの中

761年平城京を改装する為に一時遷都した近江国保良宮で、孝謙上皇が体調を崩します。

普段の疲れか。

恵美押勝との政争疲れか。

それとも自分を支える何かへの心細さか。

色々な悩みを抱えていたのであろう彼女に、献身的に看病したのが道鏡です。

孝謙上皇には、一縷の光のように見えたのかも知れません。

道鏡に出逢ってから、孝謙上皇は、精力的に政治に参加し、そして道鏡を寵愛します。

当時、天皇は唯一神であり、現代神でもあるので、天皇に即位した時点で女性は結婚できない仕組みでした。

その心細さや寂しさを埋める存在か、それとも何か他に利用するつもりだったのか、兎にも角にも道鏡を天皇に釣り合うような立派な役職に就かせるようになるのです。

その動きに我慢ならない恵美押勝は、ついに行動に移すのでした。

道鏡を寵愛してやまない孝謙上皇に、事あるごとに注進する恵美押勝。

ある日、あまりにも煩かったのか、ついに孝謙上皇の堪忍袋の尾が切れ、恵美押勝だけではなく淳仁天皇にまで怒りの矛先を向けます。

孝謙上皇&道鏡と淳仁天皇&恵美押勝の対立がいよいよ激しさを増し、ついに戦いにまで発展するのでした。

764年恵美押勝の乱と呼ばれる内紛は、恵美押勝の敗死で終わり、連座する形で淳仁天皇は淡路に廃流となります。

この内紛は、天皇が廃流となる初めての出来事となる大事件でした。

そして政敵がいなくなった孝謙上皇ですが、恵美押勝に代わって、今度は道鏡がやりたい放題の物欲の化身となるのです。

ちなみに平安時代以降、江戸時代の川柳には、孝謙上皇の道鏡への寵愛ぶりが、常軌を逸っしいる様から道鏡の巨根説などが実しやかにささやかれました。

これは、史記に登場する嫪毐(ろうあい)と趙姫(ちょうき)との関係をモチーフにしたデマであり、実際そうであったのかは、定かではありません。

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恵美押勝の乱で淳仁天皇を廃流にした孝謙天皇は、名前を称徳天皇と改め再び皇位につきます。

これを重祚(ちょうそ)を言います。

重祚とは、再び皇位につくことを指し、歴代の天皇では皇極天皇と孝謙天皇の2人のみです。

再び天皇に返り咲いた孝謙天皇改め称徳天皇。

もう小言を言う恵美押勝もいません。

自分が理想とする政治をおこなえると意気揚々とした心持ちだったことでしょう。

その政治には、自分が寵愛してやまない道鏡がいなくてはならない。

そのように考えたのかも知れません。

道鏡は道鏡で、天皇の側にいても恥ずかしくない人間にならなければならないと思ったことでしょう。

双方の考えが一致したのか、道鏡は称徳天皇から太政大臣禅師に任命されます。

この太政大臣禅師という役職は、道鏡のためだけに作られた役職です。

それ以降もその前も太政大臣禅師という役職は存在しません。

天皇を補佐する法体の太政大臣といった役職です。

この役職を創設したことで道鏡の欲望の歯止めが利かなくなるのです。

あろうことか道鏡は、法王の地位を切望するようになるのです。

法王とは、宗教上、天皇の上位にあたる地位であり、つまり現世で最も尊い存在ということになるのです。

天皇と同じくらい尊い存在になることを承諾しても良いのかどうか。

さすがに称徳天皇も逡巡したことでしょう。

迷った末に称徳天皇は、法王の位を道鏡に与えます。

そこで問題が発生します。

宇佐八幡宮神託事件と呼ばれる事件です。

称徳天皇が道鏡を法王の座につかしたことで周囲は、道鏡が天皇になろうとしているのではないかと訝しがります。

そこで太宰府から「次の天皇は道鏡にするように」という驚愕すべきご神託が届きます。

道鏡の陰謀説も囁かれ、周囲の反対もあり、称徳天皇は事の真相を確かめるべく、宇佐に和気清麻呂を使いに行かせます。

そして和気清麻呂が持ち帰ったご神託。

「天皇は皇族でなければならない」。

この言葉に絶句した称徳天皇は、怒りに身を震わし和気清麻呂を追放したそうです。

そして、周囲の反対もあり、仕方なく道鏡も処断したとのこと。

天皇に最も近い男となった道鏡。

最後は、天皇を乗っ取ろうとした物欲の罪深い低俗な男として、今も悪人として人々の記憶に残る人物となったのです。

▼孝謙・称徳天皇を描いた里中満智子▼

数々の醜聞と数多の事件を起こした物欲の悪魔・道鏡の役割は、時代を奈良時代から平安時代に移行させた一種の道化師的な役割でした。

今も尚、評判の悪い世の嫌われ者である道鏡が歴史にどう影響を与えたのでしょうか。

そして、道鏡と孝謙天皇は、宇佐八幡宮神託事件以降、破局を迎えたのでしょうか。

その後の歴史に影響を与えた道鏡。

詳しく見ていきましょう。

奈良時代は、仏教と政治の密接な関係で成り立った時代です。

その密接な関係が、時に世の中を混乱に陥れました。

道鏡の登場と退場以降、この密接な関係を破棄すべく桓武天皇は平安京に遷都を決定します。

この要因となったのは、道鏡が起こした罪が原因といっても過言ではありません。

桓武天皇の平安京遷都に伴って

  • 仏教と政治の分離
  • 天武系の天皇から天智系の天皇に移行した時代
  • 天皇が唯一神であり、法王は代々天皇しか継げない位となった
  • 貴族が中心となり、藤原氏の台頭が著しくなった
  • 天皇は軍を持たず、代わりに武士が軍事を担うこととなる

まさに時代の変換期に道鏡が登場し、それが原因で平安時代に突入しました。

もう一つ、平城京は文明や文化が急速に上がった時代でもあります。

平城京に住む民も多くなり、奈良では生活に必要な水源確保が難しくなり、水源が幾つもある京都の平安京に遷都したのも理由に挙げられます。

これら遷都しなければならない理由があるのですが、遷都とは非常に大掛かりな引越しです。

当然、相当な費用が発生します。

そこで、全ての原因は道鏡が犯した罪にした方が都合が良かったのかも知れません。

時代が創った道化師。

時代の犠牲者。

それが道鏡の役割だったのです。

孝謙天皇にとって、まさに悪夢のような男。

それが道鏡であると思われています。

果たして、そうなのでしょうか。

宇佐八幡宮神託事件が発覚してから後も道鏡と孝謙天皇は、由義宮(ゆげのみや)に頻繁に出かけています。

本当に裏切られた関係であったのなら、2人して共に出かけることがあるのでしょうか。

しかし、孝謙天皇、事件後の体調が優れず、由義宮にて倒れます。

倒れてから半年後、孝謙天皇は平城京で崩御なされ、高野山で埋葬されます。

その高野山で昼夜問わず読経し、孝謙天皇の冥福をひたすら祈る道鏡の姿がありました。

道鏡と孝謙天皇との絆は、他人に介入できないような深く強い結びつきだったのではと感じずにはいられません。

その後の道鏡は、白壁皇太子の命により下野国薬師別当に左遷されたという。

天皇になろうとした大犯罪人としては、軽い処分でありました。

時代に利用され、翻弄された一人の男。

しかし、愛が深かった男。

それが物欲の悪魔マモンの化身・道鏡の生き様であったように思えます。

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