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天才の定義とは
世の中には、天才と呼ばれる人が沢山います。
天才とは、凡人とは違う思考で物事を解釈し、アッと驚く方法で解決に導いていきます。
世界には、天才が溢れています。
世を革新に導いた人々。
音楽ではモーツァルトでしょうか。
数学ではアインシュタインかニュートンでしょうか。
日本の歴史では
織田信長や南方熊楠などは天才の部類でしょう。
そして、田沼意次も天才と称されて良い人物ではないでしょうか。
独自の解釈ですが
天才の定義とは
- 新しい方法を追い求める
- 新しい方法のためには、タブーを犯すことも厭わない
田沼意次は、どのような天才だったのか。
また、彼の天才性は如何に発揮されたのか。
この悪名高き汚濁に塗れた政治家である田沼の人生に触れ、天才についてご一考いただければ幸いです。
▼天才についての記事▼
田沼意次の一生
田沼意次の人生は、波瀾万丈でした。
田沼は、世に言う名門で生まれたわけでもなく、ましてや老中に出世するほどのエリートでもなかったのです。
しかし、田沼意次には、生まれ持っての先見性と幸運があったのです。
天才政治家・田沼意次はどのように誕生したのでしょうか。
前半は、将軍徳川家重と家治親子との関係性を。
後半は、終生のライバル・松平定信との関係性を。
簡単に言及していきます。
田沼意次とは、どんな人か知るための手掛かりに、ご一考ください。
・雑草出身!田沼意次
田沼意次の天才性は、徳川家重の小姓になった頃から発揮されます。
徳川家重。
身体的特徴からいまだに世間から愚鈍なる人物として評価されていますが、彼もまた天才の部類に入る逸材です。
特に彼の人を見る眼は、頭抜けていました。
自分にとって利便性が高く、そして期待を裏切らない男を嗅ぎ分ける能力に長けていたともいえます。
鑑識眼を持つ徳川家重を満足する男。
それが田沼意次でした。
田沼自身が名門出身ではなかったことも良かったのかも知れません。
そして、この男に幕府の舵取りをさせたくなった家重は、息子である家治にも、同様に、今まで通り仕えるように指示します。
徳川家治の御代。
老中・田沼意次の大改革がいよいよ始まります。
当時、世間では盤石と思われている徳川幕府ですが、負債が膨れ上がりに上がり、いつ倒されてもおかしくない状態でした。
それは徳川吉宗による享保の改革にみる倹約令や農本主義では、回復不可能なほどに。
危機感を持った田沼意次は、他に例を見ない改革を次々と敢行します。
具体的な改革の内容は、次の章で詳しく述べるとして、類稀なる天才・田沼意次の能力は遺憾なく発揮されました。
田沼の政治改革により、徳川幕府主体の日本経済は、明るい兆しが見えてきたかのように思えましたが、そこで「天明の大飢饉」が発生します。
この未曾有の自然災害は、近世でも最大級の大飢饉として歴史に名を刻むのでした。
その最中、田沼にとって最大の不幸が待ち構えます。
最大の支持者であった徳川家治の死。
徳川家治が、田沼意次を莫逆の友として、信頼していたかは疑問です。
信頼していた家臣と期待していた息子に先立たれ、厭世観のある家治は、田沼に全てを押し付けたのも否めません。
「良いことも悪いことも全て田沼に」
それが家治の心情であったのかも知れません。
一説に徳川家治の死は、田沼意次による暗殺の手配があったとも言われています。
兎にも角にも、支持者を失った田沼意次。
・悪徳政治家の田沼意次vs清廉潔白なる政治家の松平定信
田沼にとって、最大のライバルが登場します。
その名は、松平定信。
明君の誉高い徳川吉宗の孫にして、頭脳明晰の超がつくエリート。
「天明の大飢饉」でも、その手腕が発揮され、定信の白河藩では一人の餓死者も出なかったそうです。
一方、田沼のやり方では、大飢饉の余波を食い止めることができず、民衆による暴動が多発するという始末。
松平定信は、雑草出身の田沼意次とは、反りが合わず、田沼の画策により将軍になれなかった男でもあります。
田沼の改革を否定し、私怨もある松平定信は、家治死後、田沼の追い落としを画策し成功します。
永年蟄居という厳しい処罰を加えられた田沼意次。
70歳でこの世を去った田沼は、この世をどのように見ていたのでしょうか。
一方、政治の手綱を任された松平定信、祖父である吉宗を真似た施作が多い「寛政の改革」を敢行しますが、思うような成果を得ることができず、僅か数年で破綻します。
72歳でこの世を去る定信は、この世をどのように感じていたのでしょうか。
また田沼意次と松平定信は、大奥の扱い方でも対照的です。
幕府に多大なる影響力のある大奥という閉ざされた世界の中で、
華美な金品を贈り続け、迎合し続けた田沼に対し、規制や制約で縛ろうとした定信。
一説に松平定信の失脚は、大奥への対応が拙かったとの説もあります。
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田沼意次の政治改革
田沼意次は、間違いなく天才です。
その天才性は、主に経済に向けられました。
今までにない新しい方法で、タブーを犯す天才・田沼は、一体どのような政治改革を敢行したのでしょうか。
田沼が、もう少し長く政治の中枢にいたならば、もし「天明の大飢饉」がなければ、日本の未来の様子は変わっていたのかも知れません。
田沼改革の代表的な政治改革を少し言及していきます。
・重商主義への方向転換
江戸幕府以前から日本の経済は、農業中心でまわっていました。
現に江戸時代の身分制度では、士農工商です。
つまり武士の次に農民の身分が高いとされてきたのです。
何かを商品として生み出すものが偉いという考え方です。
その点、商品を生み出さず、その商品を売買するだけの身分は下賤の者としたのです。
目に見えないものにおいて、特に日本文化では懐疑的であるのが現在でも変わりません。
しかし莫大な利益を上げているのは、その目に見えないものを商売にしている輩であるのも現実なのです。
江戸時代では、商人がそれにあたります。
商人の武器が貨幣の流通です。
この貨幣流通・貨幣価値に力を発揮する商人に焦点を当てたのが田沼意次です。
どういうことか。
田沼は、商人を通じて幕府による市場を独占支配しようとしたのです。
手段として、同じ商品を取り扱う商人同士の組合を結成した株仲間なるものを創設し、営業の権利を認める代わりに税金を納めるようにしました。
また商人の資本力を投入し、蝦夷地開発などにも尽力します。
現在では所得税や消費税のような税金システムがありますが、当時は農民から米などを取り上げるしか手段がなかったのですから、田沼の政策は、まさに幕府にとって起死回生の税制対策だったのです。
重農主義から重商主義に方向転換した田沼意次。
朱子学思想の塊であった江戸時代において、商業に焦点を当てること或いは貨幣に重点を置くことは忌み嫌われる考えであり、田沼は、まさにタブーを犯した大悪人というレッテルを貼られるのです。
・海外貿易に視野を拡げる
言わずと知れた江戸時代は鎖国制度をとっていた時代です。
海外との接点は、長崎の出島でしか接点はなく、そこで貿易をおこなっていました。
そこで田沼意次は、海外との貿易を活発にし、国力の強化を意図した政策をおこないます。
高級とされた干し鮑など海外への輸出項目を増やし、多くの海外製品や技術を輸入しようとしました。
また蘭学にも積極的に理解を示し、その中で杉田玄白や平賀源内などの後世に名を残すような人材も輩出しています。
ロシアとの貿易も画策していたようで、その為の蝦夷地開発も構想していました。
しかし、対ロシア外交は、田沼の失脚により頓挫します。
もしロシア外交が成されれば、幕末時代に突入する事態にはならなかったのかも知れませんし、もっと早くに徳川幕府が瓦解していたかも知れません。
このような革新的改革をおこなったことにより、徳川幕府は今までの赤字を解消し、黒字に転換する好景気に見舞われるのでした。
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悪名も天才たる所以
江戸幕府財政の窮地を救った田沼意次。
しかし、世間の評価は芳しくなかったのです。
株仲間制によって商人の力がますます増幅、権力者である武士層を手玉にとり、世の中を動かしていきます。
重商主義の権化である商人は、今までの農本主義で既得権益を得ていた武士層や農民層にとって生きづらい世の中となったのです。
そんな世界の中心である田沼も憎しみの対象です。
商人層では慣例であった賄賂や付け届けで莫大な財産を築いたとされており、賄賂政治・悪徳政治家などと揶揄されるようになります。
差詰め時代劇の悪代官のようなイメージでしょうか。
重商業主義の転換、海外貿易で版図を広げた政策は、凡人には考えも及ばない天才の所業ですが、一方で当時のタブーを犯し、新しい方法を追い求めた当然の結果でしょうか。
後世、悪名だけが残ってしまう田沼意次となるのでした。
現在の日本は、不景気が続き、かつての高度経済成長を遂げた輝かしい時代とはかけ離れた時代です。
没落の日本市場において、今田沼意次が登場し、ドラスティックな改革が行われることがあるのでしょうか。
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