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【信虎の野望】老い木に花咲く武田信玄の父から老後を考える

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歴史
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「天下最強の父」武田信虎とは?

武田信虎は、アクの強い男です。

幼少の頃から読書に耽った我が息子、武田信玄とは全く違う性情の持ち主でした。

自分の欲望に忠実であり、亡くなるまで目に闘志を宿した人物なのでした。

その目は、老齢になっても朽ちず、何かをやってくれそうな期待さえ起こさせます。

若い頃に甲斐を平定し、もっともっとと闘争に明け暮れる戦争屋信虎。

価値観の違う息子信玄に国を追い出されたが、老齢になっても闘争への渇望は消えず、ますます盛んになるのです。

隠居名「無人斎道有(むにんさいどうゆう)」

人のいないところに道あり。

武田信虎らしい名前です。

剥き出しの欲望に忠実な男信虎は、どんな人生だったのでしょうか。

武田信玄との確執!センセーショナルな追放劇

武田信虎・信玄親子の家柄、甲斐武田氏は、名門の誉れ高き甲斐源氏の末裔です。

しかし世は戦国、生き馬の目を抜く打算に満ちた世界です。

やられたらやり返す時代に名門は何の意味もない世界で、信虎は武田 信縄(たけだ のぶつな)の嫡男として生まれます。

その当時、かつての名門甲斐源氏の威光は翳りを見せ、甲斐国内は乱れに乱れた状態でした。

内からは穴山氏などの有力国人衆、外からは今川氏などの強力大名たちが揃い踏み。

ここで信虎は、どう考えたか?

答えは簡単です。

全員なぎ倒すです。

武田信虎は、全てを相手に戦いを挑みます。

その甲斐があって甲斐を平定するという駄洒落のような物語の信虎ですが、丁度、甲斐平定時に嬉しい報告があります。

武田信玄という息子が誕生するのです。

名前を甲斐を統一したことにちなんで「勝千代」と命名し、大層喜んだそうです。

・武田信玄の反面教師!信玄の政治力

勝千代誕生に喜んだ信虎でしたが、程なくして次男である信繁が誕生します。

この信繁、幼い頃より英気活発で愛想が良く、兄である勝千代よりも可愛げのある子供です。

ついつい、無口で読書好きの長男よりも元気ハツラツな次男を可愛がる信虎なのです。

そして兄弟が成長するにつれ、どちらが当主に相応しいかを考えた信虎は、弟の信繁を推薦しようとします。

信玄の心模様は、どのような状態だったのでしょう。

そこは頭の良い信玄です。

「兄より優れた弟は存在しねぇ!」と叫びたいのをグッと堪え、信虎周囲の家臣懐柔に努めるのでした。

武田信虎は、生まれ持っての戦争屋です。

我が闘争を抑えることができず、つき従う家臣の事などは、お構いなしの行動が目に余りつつありました。

結果、兵は疲弊し、家臣は不平に満ち満ちていたのです。

そこは頭の良い信玄です。

この状態を見過ごす訳はなく、家臣たちに便宜を図るなどで信頼を得るのです。

周りを固めた信玄は、マニフェストを掲げます。

親子とも領土拡大路線でしたが、信玄は領土拡大に伴い、家臣に還元する事を約束します。

さらにインフラの整備組織の再編成家柄に左右されない人材登用などの改革を遂行します。

マニフェスト実現のための具体的な行動を示したのです。

常に周囲の反応を観察し、用意周到な信玄ならではの方法なのではないでしょうか。

無用の長物となった信虎は、家臣の推挙する信玄に追い出される形で、甲斐国から駿河国に我が身を置くのでした。

・老後の面倒をみた息子信玄

人の感情は、複雑で愛と憎しみは紙一重です。

それが親子になると、複雑さや愛憎に深みが増すのでしょう。

追放された信虎は、駿河国の国主である今川義元の庇護の下、暮らします。

武田信玄は、終生、信虎が困らない金を仕送りし続けたといいます。

今川家から面倒を見てもらう体面でしょうか。

切っても切れない縁というものでしょうか。

戦国時代の親子・兄弟での相続争いは、相手を死に追いやるまで、止むことのない凄惨な物語が通例です。

しかし武田信玄は、父信虎、弟信繁と凄惨な争いをすることなく家督を譲り受けています。

戦国時代でも稀な親子関係・兄弟関係は、武田信玄の性格によるところが大きいのではないでしょうか。

武田信玄は、誰かのために何かする戦国時代では珍しく優しい性格だったのです。


老いてなお武田信虎の野心

今川義元の正室は、信虎の娘である定恵院(じょうけいいん)です。

それ故、駿河での信虎は「姑殿」として待遇されます。

一説には、駿河での信虎は隠居した身であるが息子信玄に駿河の様子などを調査し、報告していたようです。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると居心地が悪かったのか、放浪の旅にでます。

そんな信虎が将軍・足利義昭の奉公衆として支えている時、織田信長と義昭の関係が悪化します。

足利義元の信長追討令に呼応する形で、信玄が西上作戦に乗り出します。

これは信虎が信玄に、信長追討令に呼応すべしと催促したとも言われています。

西上作戦は、武田親子にとって、天下統一のチャンス。

武田信虎の悲願だったのかも知れません。

・西上作戦と信虎

西上作戦とは、武田信玄にとって、どういった位置づけの作戦だったのでしょうか?

常に誰かのために生きてきた信玄です。

領土拡大は、家臣を豊かにするためであり、西上作戦も徳川領である三河国・遠江国を奪いとる算段であったとする向きもあります。

しかし武田信玄は、西上作戦の前から病がちであり自分の死期を悟っていました。

最後の最後に天下を夢見たと解釈したほうが、ロマンがあります。

そして、天下は甲斐武田氏にとって、悲願でもあったのです。

天下を夢見た信玄。

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康に大勝するも、夢半ばで病に勝てず、ついに最後を迎えるのでした。

死因は、胃がんとも結核とも言われています。

・武田当主武田勝頼との対面

武田信虎は、天正2年(1574年)に甲斐国に帰還することができました。

息子の中で1番可愛がっていた武田信廉(たけだのぶかど)の高遠城で世話になるのでした。

この武田信廉ですが、画家として有名であり、作品には「武田信虎像」「武田信虎夫人像」などの絵画を残しています。

また兄である信玄と顔かたちが似ていることもあり信玄の影武者として活躍したそうです。

西上作戦で信玄が亡くなったことを隠すために甲斐国へ信玄になりすまして帰還したとも言われています。

武田信虎の晩年は、この信廉の世話になりながら余生を穏やかに過ごしたそうです。

また信虎は、高遠城にて次の当主である孫の武田勝頼と謁見したそうです。

武田勝頼を見て、信虎はどう感じたのでしょうか?

年老いて益々盛んな信虎です。

このまま勝頼に甲斐を任そうか?

それとも自分が甲斐を奪いとって、返り咲こうか?

穏やかに過ごす信虎よりも、野心が見え隠れする信虎の方が似合っているような気がして成りません。

  

無人斎道有に学ぶ長寿の心構え!

武田信虎は、81歳でこの世を去っています。

戦国時代では、驚異的な寿命の長さです。

信虎の心にあったのは、世の中への諦念ではなかったはずです。

一言でいえば

「異常な執着心」

この言葉に尽きるでしょう。

偉業を達成する人間は、自分への期待が高く、執着心をもって成功に導きます。

何事においても、才能や環境の前に、この執着心がなければ成功しないのでしょう。

自分は、こんなものではないという心構えが長寿に結びついた。

そのような気がしてなりません。

81歳でこの世を去った信虎は、まだまだ生きたかったのでは?

そんな風に思わせるアクの強い人物でした。

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