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【ばらかもんになれなかった男】キリシタン大村純忠の全軍!前進!

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歴史
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パワハラ社長の二代目・大村純忠がキリシタン大名になった理由

大村純忠は、父・有馬晴純とは違って、気弱な性格でもあり、周囲を敵に囲まれている長崎の弱小大名です。

気弱な性格ゆえか、陰湿な行為が目立つ純忠ですが、日本で初めてキリシタン大名となる人物でもあります。

キリシタン文化の影響により、長崎県は、今でもどこか異国情緒漂う街へと変貌を遂げましたが、純忠存命の頃は、過酷な圧政を強いた時代でもあったのです。

大村純忠は、何をしたかったのか。

大村純忠は、なぜキリシタン大名になったのか。

大村純忠は、キリシタン大名になった功罪は。

この答えに、少なからず影響を与えた父・有馬晴純への劣等感と気弱な性格ゆえの虚勢、盲目的な信仰心にあるように思えます。

大村純忠のモンスター化に触れ、異国情緒あふれる長崎名物とともに、純忠の人生に肉薄していこうと思います。

日本初のキリシタン大名・大村純忠の実態

キリシタン大名・大村純忠を語る上で、父・有馬晴純の影響は欠かせない要因であることは間違いないでしょう。

大村純忠の人格形成に多大なる影響を与えた有馬晴純の人生を振り返ると共に、キリシタン大名になった経緯などをお伝えいたします。

そして、キリシタン大名・大村純忠がどのような政策をしたのかなどもお伝えいたします。

・有馬晴純と養子に出された次男・純忠

有馬晴純の前半生は、資料が少なく、どのような人生を送ったのかは謎ですが、有馬氏の最盛期を作った人物です。

1483年、有馬尚鑑の嫡男として誕生しました。

ちなみに、晴純の「晴」は、時の将軍である足利義晴の「晴」の一文字を与えられて、晴純としたそうです。

それほどの名門であり、武威は都にも聞こえているほどの大名でした。

有馬晴純の動員兵数は、2万ほどとも呼ばれる武威を誇りましたが、これには南蛮貿易で利益をあげたことによる経営基盤があったからこそです。

そして、周囲の大名に対して、養子縁組政策などを行い、肥前一体の支配強化に努めました。

南蛮貿易で巨額の利益をあげた晴純ですが、熱心な仏教徒であったこともあり、キリシタンを激しく弾圧したことでも有名です。

晩年は、嫡男である有馬義貞に家督を譲り、隠居しますが、義貞がキリスト教に入信すると、これを嫌い義貞を追放します。

隠居を撤回した晴純ですが、時代の趨勢には勝てず、徐々に有馬氏が衰退の一途を辿っていくことになるのです。

享年84歳、有馬氏を一代で築き、一代で潰したようなパワフルで強引な性格であったのでは、ないでしょうか。

この有馬晴純の次男として生まれたのが、大村純忠です。

晴純の養子縁組政策により、幼少期に大村氏に養子となります。

そして17歳の頃、純忠は、大村氏の家督を継ぐこととなったのです。

当時、有馬氏と大村氏の力関係は、有馬氏が断然強く、より晴純の影響力を及ぼすための家督相続です。

親のコネで、大村氏の当主になったというところでしょうか。

大村純忠の性格は、元来、気弱な性格であり、この家督相続が、陰湿な性格に拍車をかけたのかも知れません。

・南蛮貿易で活路を見出す純忠

大村純忠は、父親の影響力により、大村純前の後を継いで大村氏の当主となります。

しかし、純前には実子がおり、実子を他家に養子を出しての相続であるので、家臣は反発します。

また、松浦氏西郷氏などの有力国人が周囲におり、純忠は、領国統治に困難を極めました。

これを打開するため、南蛮貿易に注力します。

キリシタンや貿易商人に優遇措置を講じ、領内の横瀬浦を貿易港として開放します。

大村純忠は、イエズス会にキリスト教の布教・貿易の免税措置・教会設置などの開講条件に同意を引き換えに莫大な利益を得ることができたのです。

さらにイエズス会との関係を良好にするため、純忠はキリスト教への入信を家臣と連なって決意します。

家臣を連なってくる部分に気弱な純忠の性格が垣間見れますが、兎にも角にも、戦国時代初めてのキリシタン大名となるのでした。

・キリシタンになった大村純忠の圧政

洗礼名:ドン・バルトロメオ。

最初は、領土経営の繁栄、利益拡大の為のキリスト教入信でしたが、徐々にのめり込むようになる大村純忠。

肝心の南蛮貿易ですが、開港した横瀬浦が領内の反乱分子により焼失、次いで福田浦に拠点を移しますが、松浦氏との衝突の火種となり、最終的に長崎を貿易港として開港します。

南蛮貿易の要として、人口も爆発的に伸び、繁栄を極めた長崎ですが、周囲の有力国人たちとの衝突が絶えず、龍造寺隆信からの圧力や有馬氏の南蛮船誘致計画、大村純忠の暗殺計画まで成される事態となり、純忠の悩みの種となります。

大いに悩んだ大村純忠は、長崎をイエズス会に寄進します。

イエズス会に統治権や司法権を委ね、他国に侵略されないようにするのです。

日本の領土侵攻を成したいイエズス会にとって、大村純忠は、まさに格好のカモだったのでしょう。

キリスト教の熱烈な信者となった大村純忠は、教義に従って、側室などの妻以外の女性関係を解消し、その後も妻だけを愛する忠実なキリシタンであろうとしました。

そして、元々備わってたであろう陰湿でパワハラ気質な性格が表面化します。

領内の神社仏閣を破壊し、キリスト教会の建立、領内の仏教徒を強制的にキリシタンに改宗。

領内の墓地まで破壊し、僧侶や神官を皆殺し、改宗しない領民においても殺害や追い出すなどの措置をしています。

この蛮行は、当然、家臣や領民たちの反感を買うこととなります。

一方で、日本初のヨーロッパ訪問団である天正遣欧少年使節有馬晴信大友宗麟と共に編成し、ローマに派遣しています。

キリシタンとして、崇高な気持ちを持ちながら、他の宗教を崇拝する人間には容赦がない。

大村純忠は、狂信的なキリシタンとして、自分の思いのまま、行動に移した人物なのでした。

・バテレン禁止令の要因?豊臣秀吉が発令した理由

大村純忠が、キリシタンになった理由は、南蛮貿易による富や武器を手にいれる目的でイエズス会に開港しました。

当時、イエズス会と貿易はセットであったため、キリシタンとなることが手取り早かったのでしょう。

そして、キリスト教の教義に魅せられた純忠は、強引な方法で、改宗活動をします。

神道や仏教を激しく攻撃し、差別や迫害をおこなったそうです。

また、改宗を拒否した者には、奴隷として海外に売り飛ばし、南蛮の武器を交換したとの記録も残っています

この行き過ぎた行為が、豊臣秀吉の「バテレン追放令」発令の引き金となったと言われています。

なお、大村純忠自身は、龍造寺隆信に追われ、その地位を奪われましたが、豊臣秀吉の臣下となるなど戦国時代を上手く切り抜けた人物でもありました。

最後は、肺結核などを患い、55歳で亡くなります。

純忠が亡くなった1年後に「バテレン追放令」が発令されていますので、もし純忠が存命ならば、間違いなく秀吉に追放されていたことでしょう。

▼豊臣秀吉にまつわる記事はこちら▼

歴史風情のある長崎県のハイカラな食べ物

海外との交流が許された唯一の街である長崎。

この長崎から、海外の情報を得たり、シーボルトが西洋医学を日本に伝えたりと非常に重要な街でもありました。

異国情緒が漂う長崎は、和洋折衷かつ独自の食べ物が発展した街です。

ここでは、長崎の代表的なグルメの一例を挙げます。

・長崎といえば「ちゃんぽん」の発祥地

「ちゃんぽん」が生まれたのは、明治時代ごろだそうです。

独特のコシと野菜や魚介の旨みを閉じ込めたスープは、絶品です。

一説に「「吃飯(シャポン)」という中国語がなまって、「ちゃんぽん」となったそうです。

「ちゃんぽん」は、本場長崎の「長崎ちゃんぽん」の他に、「雲仙ちゃんぽん」、「小浜ちゃんぽん」など、特徴のある地域ちゃんぽんもあります。

・不朽のお菓子「カステラ」

長崎といえば「カステラ」であり、誰もが知っているお菓子の定番中の定番です。

この「カステラ」は、ポルトガル語から派生された名前です。

キリスト教・鉄砲伝来の時期から伝わったとされるカステラは、400年以上の歴史もある、今も昔も贅沢な気分にさせてくれる名果です。

あの坂本龍馬も商売として「カステラ」を売ろうとしたそうです。

・ご当地グルメのさきがけ「佐世保バーガー」

昭和の時代に、米軍海軍関係者がハンバーガーのレシピを伝授した街が佐世保だったそうです。

そこから「ハンバーガー伝来の地」となったと言われています。

非常に肉厚なハンバーガーが多く、食べ応えのある食感と満足感のあるボリュームは、ご当地ブームの火付け役になるほどの人気になった食べ物です。

提供している店独特の味の違いがあり、食べ比べてみるのも一興かと思われます。

また人気のハンバーガーショップは、行列が絶えませんので、ある程度、時間に余裕を持っていきましょう。

晩年の逸話から見るジュニア・大村純忠の成長

晩年は、肺結核などで体調を崩し、余生を病気療養で過ごした純忠ですが、キリシタンとなって、随分と穏やかになったとされる逸話があります。

ある日、死期を悟った純忠は、可愛がっていた小鳥を籠から解き放つように侍女に頼みます。

しかし、侍女が小鳥を雑に扱ったので、腹を立てたそうですが、腹を立てるのは教義に反するとし思い改め、丁寧に小鳥を扱うよう侍女に頼みこんだそうです。

この逸話をキリシタンとなった大村純忠の成長と見るのかどうかは、意見の分かれるところです。

もともと矮小な性情の持ち主である純忠は、自己の矮小さも含め許されようと信仰にすがったのかも知れません。

一代で領土拡大に成功した父・有馬晴純の言うがままに大村氏の家督を相続した純忠。

自分の内外に敵を抱えていた純忠は、打開するためにイエズス会に取り入り、長崎を所領権を明け渡します。

また、領国民・家臣にキリスト教への改宗を迫り、拒否する者は、迫害や奴隷として売り飛ばすなどの恐怖政治を強います。

もし、この蛮行をしなければ、「バテレン追放令」という悲劇を迎えなかったかも知れなかったことを考えると大村純忠の罪は、非常に重い。

これら全てを信仰によって、許しを乞うとするならば、到底、許されざる者であるでしょう。

ジュニアの最大の贖罪は、現世で許される行為をするのかどうか。

でなければ、迫害され、奴隷になった人の魂が浮かばれないのでは、ないでしょうか。

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