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【そして歴史は動くはずだった!】西の関ヶ原の戦い:耳川の戦い

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歴史
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ツワモノ達の九州三国志

歴史が動いた出来事や事件は、世の中にたくさんありました。

いわゆるターニングポイントというやつです。

世界の歴史でみれば、大航海時代や産業革命です。

これにより、アジア経済優位の世界観からヨーロッパ経済中心の世界観に転換したと言っても過言ではありません。

新大陸発見や第二次世界大戦なども、そうかも知れません。

日本の歴史でみれば、承久の乱や明治維新などもターニングポイントと言えるでしょう。

これにより、武家社会や天皇中心の近代的中央集権国家が成立しました。

ドラスティックに転換したという程でもないですが

戦国期も大小様々なターニングポイントが日常で起きていました。

桶狭間の戦いや本能寺の変、関ヶ原の戦いなど、天下の趨勢を左右する戦いがありました。

そして九州にも、覇者を争う戦い、天下の趨勢を左右する戦いがありました。

かの有名な「耳川の戦い」です。

当時、九州では、大友氏・島津氏・龍造寺氏と三つの勢力が鎬を削り、均衡を保っていました。

この均衡が崩れたのが、耳川の戦いです。

耳川の戦いに至る背景と戦果、その後の九州について、どのような展開があったのか。

そして、耳川の戦いの場所である宮崎県について、簡単にご紹介いたします。

ツワモノ達が集う九州という土地は、戦国時代の中で一番熱く、心踊る合戦がいくつも繰り広げた歴史好きには堪らない場所。

それが九州という土地なのです。

歴史が動いたかも知れない耳川の戦いを繰り広げた大友宗麟vs島津四兄弟の物語が、今から始まります。

耳川の戦いの背景と戦果

耳川の戦いは、1578年(天正六年)に起こった大友氏と島津氏との戦いです。

1578年というと日本では、織田信長が中国攻めを本格的に開始し、荒木村重が離反する頃合いであり、軍神・上杉謙信が死去し、跡目争いである御館の乱が勃発する頃合いです。

世界では、1580年、無敵艦隊・太陽の沈まぬ帝国と言われたスペインがポルトガルを併合する頃合いになります。

では、その当時の九州の勢力図はどのようなものであったのでしょうか。

・九州の勢力図

群雄割拠であった九州の土地は、主に3つの勢力が鎬を削っていました。

それぞれの勢力の主要な人物をご紹介いたします。

・龍造寺隆信

「肥前の熊」と称され、地方の国人という家柄から九州でも三大勢力にまで、築き上げた傑物です。

熊と言われるぐらい巨漢であり、馬には乗れず、6人で担ぐ輿に乗って合戦を指揮したそうです。

また、ルイス・フロイス曰く、注意深さと決断力に関してユリウス・カエサルを上回ると言われたほどです。

一時は、筑前国と肥後国に勢力を張っていましたが、1584年(天正12年)島津氏との戦いである沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で戦死すると龍造寺氏は急速に勢いを失います。

その後の龍造寺氏は、家臣であった鍋島直茂に取ってかわられる形で断絶・零落していったのでした。

・大友宗麟

鎌倉時代からの名家であった「大友氏」の最盛期を築き上げ、北九州6カ国を手に入れた大名です。

卓越した政治センスと海外貿易で得た経済力と知識を持ち合わせた、戦国では数少ないグローバリズム的思想の人物でした。

その証拠に、西洋式病院を日本で初めて設立したり、ボランティア活動のパイオニアであったりとしています。

また、宗麟はキリシタン大名として有名であり、彼が48歳の頃に入信しました。

この自身のキリスト教入信と妻へのキリスト教勧誘が、家族と家臣との歪みの原因となったのです。

その歪みの中で「耳川の戦い」が勃発しました。

▼キリシタン大名の記事は▼

・島津四兄弟

最後は、九州で特に有名な島津四兄弟です。

島津四兄弟とは

・島津義久
・島津義弘
・島津歳久
・島津家久

鬼の島津と呼ばれたコワモテ兄弟です。

ヤンキー漫画に登場するような最強四兄弟として、近隣諸国に武名鳴り響く兄弟です。

かつて島津氏も大友氏同様、鎌倉時代から薩摩・大隅・日向三国を守護する名門でした。

しかし戦国時代になると弱体化し、薩摩の一部を領するだけの存在へと成り下がっていました。

これを立て直し、戦国最強の島津軍にしたのが、島津四兄弟です。

とにかく戦上手。

とにかく恐れ知らず。

とにかく有能。

と島津四兄弟は、揃いも揃って傑物であり、ゲームでも無双状態の数値です。

▼戦国のゲームのパイオニアといえば▼

・耳川の戦い勃発

耳川の戦いのキッカケは、最強島津氏に領地の半分を奪われた伊東氏が大友氏への救援要請から始まります。

伊東家当主であった伊東義祐(いとう よしすけ)は、島津氏から領地を奪還できた時には、大友氏に領地の半分を差し上げるといった約束をします。

大友家当主である大友宗麟は、熱心なキリシタンであり、その土地にキリスト教の理想郷を造ることを計画し、大軍を率いて島津氏と戦うことを決意します。

大友軍総勢4万5000とも言われる大兵力。

そして、ポルトガルから取り寄せたと言われる、別名「国崩し」、フランキ砲を携えての出陣です。

ちなみに大友宗麟といえば、有名な無敗の男・立花道雪がいますが、この戦いには大反対しており、メンバーから外されています。

・戦国最強兵器!フランキ砲

戦国当時の最新・最強兵器と呼ばれるフランキ砲。

破壊力が抜群のことから「国崩し」の異名のある大砲です。

ちなみに中国語でフランキとは、南蛮人やポルトガル人という意味だそう。

このフランキ砲を使い、高城を攻略しようとしますが、なかなか上手くいかず、とうとう島津軍の援軍が到着します。

しかも、援軍部隊は、島津四兄弟で、一番能力値が高い島津家久です。

・島津名物!釣り野伏せ

耳川の戦いの勝敗の結果は、大友軍の大敗北で終結しました。

これは、島津のお家芸と呼ばれる「釣り野伏せ」という戦法によるところが大きいです。

釣り野伏せとは

・軍をa-b-cの3つに分け

・b-c部隊を予め、左右に伏せさせる

・aが囮になり、わざと劣勢を装い、退却するように見せかける

・伏兵のb-cが現れ、一挙に敵を屠る

理屈的には、三国志で登場する「十面埋伏の計」と同じです。

大友氏は、この耳川の戦いによる大敗北で、滅亡への道へと進んでいくのですが、大友氏滅亡の道は、もう少し先の話になります。

それは、日本中央部の歴史が大きく情勢が変動していたからです。

耳川の戦いで勢いに乗った島津氏は、その後、龍造寺を破り、いよいよ九州統一の道へと突き進むのですが、それに待ったをかけるのが、豊臣秀吉という大天才なのです。

魅力的な日向国・宮崎県

耳川の戦いの主戦場であったのは、現在の宮崎県です。

宮崎県は、自然に恵まれ、温暖な地域でもあり住みやすい土地として知られています。

自然豊かで、どこか神秘的な土地でもあり、神話時代の逸話もたくさんあり、古代の息吹をより多く感じることができます。

高千穂などの代表的なパワースポットがあり、精神の浄化に持ってこいの「神話の故郷」と呼ばれるほどの観光地です。

また、宮崎マンゴーやチキン南蛮、宮崎牛、宮崎地鶏などと数えればキリがないほどの食の宝庫です。

宮崎は、日向と呼ばれた国です。

「ひゅうが」とも「ひなた」とも読み方がありますが、日の当たる場所。

それが宮崎県です。

歴史の息吹を感じれる場所があり、たくさんの名産品がある宮崎県に一度は、訪れては、いかがでしょうか。

 

振り返れば豊臣秀吉がいた!

島津四兄弟により、九州統一が間近になりつつある頃、日本の中央部では、一人の天才が台頭していました。

彼の名前は、豊臣秀吉

織田信長が築き上げた体制や侵略した領土を、そのまま踏襲した秀吉は、全国統一に最も近い男でした。

負けが続いた大友宗麟は、大阪まで自ら赴き、秀吉に救援要請をします。

豊臣秀吉は、大友宗麟の要請を快諾し、九州仕置きの大軍勢を出兵します。

ここから、島津vs豊臣になったのです。

この結末は、歴史の知るところですが、もし耳川の戦いが、もう少し早ければ、島津氏の九州統一が成され、戦国時代はもう暫く続いていたかも知れません。

そして、島津四兄弟の武勇は薩摩藩に受け継がれ、明治維新の立役者になった事実を踏まえると、耳川の戦いが歴史を動かした戦いであったのです。

耳川の戦いは、後の明治維新につながるターニングポイントであったとするのは、言い過ぎでしょうか。

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