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【生き方の流儀】徳川家康・今川氏真・織田信雄それぞれの晩年

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歴史
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世の中には、大御所と呼ばれる方が多くいます。

大御所とは、すでに引退したが、その世界で大きな権力を持っている人のことを指します。

大御所と聞いて、思い浮かべる歴史上の有名人と言えば、徳川家康でしょう。

家康が大御所となった年齢は、64歳と言われています。

まさに現代の定年退職ほどの年齢で勇退し、75歳でこの世を去ります。

徳川家康は天下と統一し、大御所として影響力を持ち、江戸幕府の基盤を支え続けました。

勝利者として、晩年は有意義な人生であったのでしょう。

一方で、「海道一の弓取り」と呼ばれ、駿河・遠江・三河の覇者として君臨した今川義元の跡取りであつ今川氏真

天下統一間近で、非業の死を遂げた織田信長の息子・織田信雄

歴史から見ると成功者と敗北者ですが、敗北者は惨めな人生を送ったのでしょうか。

敗北者は、敗北者なりの有意義な人生があったのです。

徳川家康だけが充実した人生ではなく、今川氏真も織田信雄も充実した人生を送りました。

そこには、彼らなりの健康法や考え方があったのです。

三者の人生のおさらいをしつつ、健康法などをご紹介いたします。

人生は成功だけが人生ではないのが、わかるのではないでしょうか。

日本の歴史でも有名な徳川家康。

何をした人物か分からない方でも、一度は聞いたことがある名前です。

どのような人物であったのかを簡単に説明しながら、家康の健康法と最後に過ごした場所を各々述べていきます。

幼少期から青年期

徳川家康のスタートは、今川領である駿府での人質生活から始まります。

家康が人質生活で苦労した話は、物語でよくありますが、領主である今川義元の親戚筋にあたる瀬名(後の築山殿)と結婚していますので、それほど冷遇された人質生活ではなかったかと推測されます。

多少の肩身の狭さを感じながら、家康は今川義元・太原雪斎という師匠の薫陶を受け、立派な武将として成長します。

このまま今川氏の有力な親族として、安泰な生活が待ち受けるのかと思いきや、運命の悪戯は突如としてやってきます。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元は、織田信長の奇襲に遭い、敢えなくこの世を去ります。

後を継いだ今川氏真の命により、しばらくは今川方の武将として三河の国を守っていますが、応援を寄越さない今川氏に見切りをつけて、ついに独立を果たします。

有名な織田信長との軍事同盟「清洲同盟」を結び、数年後には今川領であった駿府を手中に入れます。

青年期から中年期

1582年、徳川家康にまたもや転機が訪れます。

全国統一間近であった織田信長が京都にある本能寺で、重心であった明智光秀の裏切りにあい、この世を去ります。

「家康三大危機」の1つ、伊賀越えを無事成功させた家康は、織田氏の混乱に乗じ、次々と領土を切り取り、駿府城を居城とし、5ヶ国を領す大大名となります。

後の天下人となる豊臣秀吉との戦い「小牧・長久手の戦いに勝利した家康は、自他共に認める実力者として、豊臣政権下でも盤石な地位を確立します。

しかし豊臣秀吉から見ると、気を遣って仕方がない存在の家康。

家康の実力に危機感を持った豊臣秀吉は、ついに駿府から江戸に配置替えを決行します。

中年期から壮年期

江戸に配置転換された家康は、その地で天下統一の機会を伺います。

荒れ果てた土地であった江戸という街を甦らし、豊富な財力を得ることができました。

攻められない城を築くのではなく、攻められても耐久力のある城である江戸城を築く発想力や水路を利用した街構想などは、家康の能力の高さを示すものです。

そんな家康に願いの神様がチャンスを与えます。

豊臣秀吉が亡くなると石田三成との主導権争いの面もある「関ヶ原の合戦」に勝利した家康は、一気に大坂冬の陣・大坂夏の陣を経て、念願の天下統一を果たすのです。

1603年、家康は征夷大将軍になると江戸に幕府を開き、以降400年もの長期政権を樹立します。

1605年、わずか2年余りで征夷大将軍の地位を息子である徳川秀忠に譲り、家康自身は大御所として駿府で政務を執ることとなるのです。

大御所となった家康は、政治の世界から足を洗ったのではなく、寧ろ精力的に政治の世界にどっぷりと浸かった生活をしていました。

天下は徳川家のものであること、将軍職の世襲制の確立を天下に知らしめることの為、大御所になったのです。

江戸は天下の中心地ではあるのですが、戦略的な中心地は駿府にあり、駿府を中心として尾張・紀伊・江戸がある形です。

大御所政治の主な役割は、徳川幕府が施行した法令を駿府でおこない、課題点を修正するといったトライアルの意味もあり、大いに幕府の発展に貢献しました。

また家康存命時は、政治・文化・芸能など、それぞれの分野のエキスパートが駿府に集められ、大御所政治を支えました。

戦国当時で75歳という長寿を全うした家康が、心掛けていた健康法は3点あります。

食事

家康は、腹8分目を心掛けていたそうです。

主食を麦飯に変え、夏の暑い期間でも、冷たいものは避け、温かいものを食しました。

鶏肉などの動物性タンパク質も摂取したそうです。

また季節ごとの旬な食べ物を選び、旬が過ぎると自身では食せず、家臣に分け与えたそうです。

現在でも通用する食事内容ではないでしょうか。

健康に関する知識

健康オタクとして有名な家康は、薬の文献を読み漁り、自身でも調合して薬を精製していたそうです。

自身の死亡原因にもなる食当たりによる腹痛。

一説には、胃がんではなかったとされていますが、家康は自分が配合した薬を飲み続け、医者の言うことを聞かなかったようです。

健康に関する知識があり過ぎたのかも知れませんね。

運動

家康は、普段から鷹狩りや剣術・水泳・弓術・乗馬と日課として、体を鍛えていました。

剣術・弓術・馬術はそれぞれ免許皆伝を受けているなど、格闘技に精通した武人でもあります。

運動は、ストレス解消にも有効で、メンタルケアにも適してるとされています。

晩年は何があっても動じない人物になったのは、運動による賜物だったのではないでしょうか。

家康は、生涯の3分の1を駿府で過ごしています。

理由は、戦略的な土地であったこともありますが、老後は慣れ親しんだ場所・思い出深い場所で最後を迎えたいという想いもあったのでしょう。

家康は、駿府で人生の節目にあたるような出来事や人物に出会いました。

駿府は、家康にとって最も辛い場所であり、最も幸せな場所でもありました。

家康は、遺言に自身の死後も駿府にある久能山に埋葬するよう命じています。

家康にとって、死後の世界でも過ごしたい場所。

それが駿府だったのです。

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今川氏真は、今川義元の息子です。

桶狭間の戦いで討ち死にした今川義元ですが、息子である氏真はどのような人物であったのでしょうか。

今川氏真も77歳という長寿でしたが健康法や最後に過ごした場所などをご紹介いたします。

幼少期から青年期

今川氏真は、今川義元の嫡男として生まれました。

母親は武田信玄の姉です。

幼少期から東海一の弓取と恐れられた偉大な父・今川義元の跡取りとして英才教育を受けます。

当時の駿河は非常に栄えており、文化的な街でもありました。

その駿河で生まれ育ち、プリンスとして教育された氏真は、非常に気品と教養に富んだ人物へと成長します。

また、甲相駿三国同盟の一環として、北条氏康の長女である「早川殿」(はやかわどの)を正室に迎えます。

このまま今川家を継ぎ、順風満帆な生活が約束されていると誰もが思っていたのですが、ここで転機が訪れます。

1560年今川義元は、尾張進行を敢行します。

家督を氏真に譲り、いよいよ天下統一への一歩を踏み出したのです。

その頃、今川氏真22歳。

運命の歯車が狂い出した年でした。

青年期から中年期

1560年桶狭間の戦いにより、まさかの今川義元が討ち死にすると今川家の空模様が一変します。

徐々に今川家から離反する家臣たち。

リーダーシップがなかったと言えばそうですが、実績の乏しい氏真には、近隣に武田信玄や北条氏康織田信長などの強者がいる駿府の両国経営は、荷が重すぎたのかも知れません。

そして松平元康(徳川家康)の離反

この離反により、今川氏真は武田信玄と松平元康の両方から攻められ、駿河・遠江の大半を失います。

最後は、松平元康に降参し今川家は滅亡します。

その後、妻である早川殿の縁を頼り、しばらくは北条家の庇護の下、生活します。

決して優雅とは言い難く、貧しい生活でしたが、夫婦仲は良かったそうです。

それから数年が経つと、今後は徳川家康の庇護を受けるようになります。

立場が逆転した関係でしたが、本人は意に返さず、一時は城持ちになりますが、すぐに解任されます。

あまり武将としての能力は高くなかったのかも知れませんが、氏真には教養という武器がありました。

中年期から壮年期

今川氏真には、教養のほかに蹴鞠という長所がありました。

蹴鞠はプロ級だったようで、あの織田信長も氏真の蹴鞠を所望したそうです。

当時、蹴鞠は公家の間で流行したスポーツで、蹴鞠は教養人の嗜みの一つでした。

今川氏真は、徳川家康の庇護の下、京都で和歌の編纂に勤しんだり、和歌会や連歌会に出席し、文化人として活躍しました。

今川義元の遺伝子は、武芸よりも教養などで受け継がれたのかも知れません。

糟糠の妻である早川殿を看取ると、その翌年、氏真は77歳で、その生涯を閉じたのでした。

晩年、徳川家康は今川氏真に、江戸の品川に屋敷を与えています。

これは、あまりにも氏真の話が長いからウンザリして、遠ざける目的で品川に屋敷を与えたといいます。

他にも家康は、氏真のために色々と厚遇し、氏真の息子や孫たちを自分の息子である秀忠に出仕させたりしています。

今川氏が大名として復活することはなかったですが、その子孫たちは旗本などで活躍し、高家として取り立てられる者いました。

高家とは、幕府の儀典係として殿中儀礼を指南するほか、幕府から朝廷への使者も務める役職です。

高家といえば、忠臣蔵の吉良上野介

なんと今川氏真の子孫は、あの吉良上野介なのです。

そして、米沢藩と立て直した上杉鷹山も今川氏真の血を継ぐものなのです。

今川氏真は暗君であると言われていましたが、晩年の彼や子孫を見ると、必ずしも暗君ではないとの見方が最近の傾向です。

氏真も家康同様、長寿を全うした人物です。

77歳の生涯で心掛けていたかは、分かりませんが長寿であった理由は次の3つではと推測できます。

教養

今川氏真は、和歌や連歌など教養人でした。

晩年は和歌の編纂に努めるなど勢力的に活動していました。

晩年になっても知的好奇心を失わないのは、生きる気力につながります。

長寿の秘訣は、知的好奇心を持ち続ける教養の豊かさがあったからではないでしょうか。

運動

今川氏真の特技は蹴鞠です。

それも唯の趣味程度ではなくプロ級の腕前です。

この蹴鞠ですが、サッカーでいうところのリフティングのようなものです。

相当の技術がいる上にバランス感覚や脚力などが必要になります。

体幹も強くないと難しいのではないでしょうか。

この蹴鞠を何十年もしていた氏真の体力も相当であり、運動が習慣化されていました。

運動習慣が長寿の秘訣であるのは、言うまでもないことでしょう。

夫婦仲

今川氏真と早川殿は仲の良い夫婦として知られています。

政略結婚ですので、今川氏が没落すれば離婚するのが戦国期の習いです。

しかし、今川氏が没落しても早川殿は、氏真と夫婦でいることを望みました。

愛想を尽かされなかった氏真は、何かしら早川殿にとって魅力的な人物であったのでしょう。

夫婦仲が良いということは、会話が多かったという証左です。

晩年期の会話量の大小は、長寿にも関係があります。

今川氏真は、よき理解者に恵まれ長寿に至ったのでしょう。

早川殿が亡くなり、その一年後に氏真が亡くなっていることを踏まえると気力がなくなったのかも知れません。

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「なかなかに 世をも人をも恨むまじ ときにあはぬを 身のとがにして」

今川氏真辞世の句

今川氏真は、今川氏が没落すると転居を繰り返した流浪の戦国人です。

相模や遠江、京都と旧領駿河に戻ることはなかったのですが、各地を転々とした人生です。

最後に辿り着いた場所。

それが徳川家康にあてがわれた品川という場所です。

品川とは、東京湾に面した東京都の一部です。

現代でもそうですが、江戸時代でも宿場町として賑やかな街でした。

この品川を終の住処として、氏真は最後を迎えたとされています。

氏真の子孫には、品川性を名乗った人物もいるので、氏真自身も気に入っていたのかも知れません。

今川氏のプリンスとして、何不自由なく過ごした駿河から一転、各地を転々とした日々。

そして品川に辿り着いた氏真に向来した想いは、どのようなものであったのか知る術もありませんが、失敗続きの人生ではなかったように思います。

氏真は辞世の句を残しています。

内容としては

自分が時代に合っていなかっただけで、時代も人も恨んでいないといった意味です。

この考えが、もしかしたら長寿の秘訣なのかも知れません。

最後に紹介する織田信雄は、織田信長の息子です。

偉大なる父・織田信長の息子として、さぞ大活躍したのではないかと思われますが、実際は失敗の連続でした。

暗愚と呼ばれる織田信雄ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか。

彼も家康・氏真同様に長寿でした。

織田信雄の健康法や最後に住んだ場所などに触れていきます。

・織田信雄のおさらい

幼少期から青年期

織田信雄は、織田信長と側室であった生駒殿の間に生まれたとされています。

信雄自身が次男であったのか、三男であったのか詳細は不明ですが、天才・織田信長の息子であることは紛れも無い事実です。

幼名は「茶筅丸(ちゃせんまる)」

織田信長は、我が子に奇妙な名前を付けるので有名です。

そんな茶筅丸は、織田家の息子として自由我儘に育ちますが、名門北畠家の養子として入り、1572年元服します。

その後、1575年に北畠家の家督を継承して第10代当主となります。

自分は織田信長の息子である。

そんな想いが強かったのでしょう。

北畠の家督を相続した後、信雄は父・信長に無断である行動をします。

青年期から中年期

1579年、後で呼ばれる「第一次天正伊賀の乱」を信雄は独断で敢行します。

伊賀といえば忍者集団。

結果は、大軍を率いた信雄が伊賀衆によるゲリラ戦により敗北。

この敗北を聞いた織田信長は、烈火の如く怒り狂ったそうです。

快進撃を続ける織田軍が、伊賀のような小国に負けることがあってはならず、また自分の知らないところで敗北したことが許せなかったのでしょう。

信長は、息子・信雄に対し「親子の縁を切る」という書状を叩き付けたほどです。

続く「第二次天正伊賀の乱」では、丹羽長秀蒲生氏郷など織田家でも名だたる武将を配して、伊賀衆を殲滅しました。

ちなみに、この伊賀の乱であぶれた伊賀衆を庇護したのは、徳川家康であり、後の「伊賀越え」の時に伊賀衆が家康を守って三河まで送り届けたと言います。

その後の織田信雄は、大した結果も残さずに過ごします。

しかし、ここで天下の一大事が起こるのです。

中年期から壮年期

1582年、本能寺の変により父・織田信長が暗殺されるという大事件が起こりました。

この時、信雄は近江国まで進軍しているのですが、応戦せず撤退します。

もし、信雄が明智光秀と戦っていれば、歴史が変わっていたことでしょう。

その後の「清洲会議」では、織田信長の後継者として推薦されることもなかったのです。

信雄が、いかに家臣からの信頼がなかったのかが伺いしれます。

「賤ケ岳の戦い」で勝利した豊臣秀吉は、用済みとばかりに信雄を追い出します。

そこで信雄が頼ったのが徳川家康です。

1584年、秀吉と信雄・家康連合軍による戦い「小牧・長久手の戦い」が勃発します。

この戦いは信雄・家康連合軍の勝利に終わるのですが、信雄は勝手に秀吉に和睦を結んで終結するという結果になりました。

織田信長の息子としては、それほど軍事・政治能力の才を受け継がれることもなく、清洲会議では後継者として推薦されることもなく愚将としての存在感を放つ信雄の晩年は、どうだったのでしょう。

織田信雄は、豊臣秀吉天下統一後も問題を起こします。

徳川家康関東移封後の旧領を信雄に任せようとする秀吉に対して、信雄は拒否します。

これにより秀吉は、信雄を追放し流罪を命じますが、家康の執りなしにより、秀吉の御伽衆に落ち着きます。

その後「関ヶ原の戦い」では、西軍に与したとされ領地を没収されます。

しばらくは、豊臣秀頼のご意見番として重宝されますが、豊臣と徳川の関係が悪化すると逃げ出し、嵯峨へこもってしまったのです。

この行為を家康が喜び、豊臣滅亡後、信雄は5万石の所領を与えられています。

信雄自身は、息子に知行を譲ると京都で悠々自適な生活を送りました。

徳川幕府が磐石の体制となり、三代徳川家光の頃に催された江戸城の茶会にも参加しています。

73歳、織田信雄は、最後は自由気ままに生きて生涯を閉じたのでした。

暗愚・凡庸と言われる織田信雄ですが、73歳まで生き、その後の織田の血筋を残した唯一の人物です。

健康法と呼ばれるものがあったかは定かではないですが、マインド面で優れている点を挙げていきます。

ポジティブマインド

織田信長の息子であるプライドは、相当高かったのですが、決断力がなく、人情化の面を持ち合わせています。

度々、信長・秀吉・家康を怒らせて、領地を没収されるのですが、どこか憎めなかった面があるのでしょう。

そこには、どのような局面でもポジティブマインドがあり、人生はどうにでもなるという考え方があったのではないでしょうか。

ストレスフリー

北畠家に養子となった信雄は、かなりストレスやプレッシャーがあったことでしょう。

しかし、独断で行った「天正伊賀の乱」の敗北から、何かを得たのかも知れません。

それは、勝利を得るための工夫といったことではなく、自分の足るを知るといったことなのかも知れません。

秀吉・家康という英傑を相手取り、どっちつかずの処世術はストレスやプレッシャーから、どのように抜け出すかといったマインドだったのでしょう。

それが晩年のストレスフリーの生き方に繋がったのかも知れません。

▲安土城址 織田信雄公四代供養塔▲

織田信雄の最後は、息子に知行に譲り、自身は悠々自適な生活を満喫します。

老後の生活を充実させた場所は、京都の北野です。

雅やかで文化的な街である都、京都で悠々自適な生活を送るには、相当なお金も必要だったのでしょうが、資金もあり、満足できる生活を送ったことでしょう。

暗愚・凡庸と言われてもしぶとく生き抜き、最後は北野という街で悠々自適な生活を送っていたことを考えると人生の勝者といっても過言ではないのではないでしょうか。

人生に大切なことは、五文字で言えば「上を見るな」。
七文字で言えば「身のほどを知れ」。

この言葉は、家康が発した名言とされていますが、負け続けていた男である徳川家康ならではの言葉です。

最終的に成功を収めて家康ですが、氏真も信雄も晩年を見ると、ある種の成功を収めたともとれます。

それには、健康であり、長寿であったことが起因しています。

三者からみる長寿の秘訣をまとめると

  • 運動
  • 知識
  • 誰かとの会話
  • ストレスを溜め込まない
  • ポジティブマインド

現代では当たり前のような長寿の秘訣ですが、三者の生き方や考え方から得れる長寿の教訓でもあります。

人生は何があるか分からないから面白いと思える三者それぞれの生き様でしたが、最後は充実した人生を送ったと呼べるべき人生であったのではないでしょうか。

長く生きることで得られることもある。

そんなことを思わずにはいられない三人の生き方の流儀でした。

▼長寿の秘訣は運動習慣▼

運動は健康だけではなく、精神的にも良いのが通説となりつつあります。

これからの人生は健康が一番です。

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