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【鬼武者・バカボンドの主役】宮本武蔵は強いのか?息子・伊織の証言

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歴史
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一度は憧れる単純な武力による強さ。

それを持ち合わせた剣豪である宮本武蔵は、決闘において無敗でした。

宮本武蔵の剣豪伝説は、息子・宮本伊織が残した「小倉碑文」により、どれほど強かったのかが喧伝されています。

宮本武蔵を知る方は、当然知っているであろう吉岡家との決闘や巌流佐々木小次郎との決闘。

これは本当に史実であったのだろうか。

本当に宮本武蔵は無敗の剣豪であったのであろうか。

伝説に彩られた男・宮本武蔵の代表的な決闘を紹介するとともに、息子・宮本伊織から見た宮本武蔵を深堀りしていこうと思います。

剣豪宮本武蔵の強さを測るには、戦歴から憶測するのが一番です。

60戦以上無敗の剣豪。

それが我々の知る宮本武蔵です。

武蔵は果たして、当時随一の強者と戦ったのか?

それとも勝てる相手としか戦わなかったのか?

宮本武蔵の無敗伝説に彩られた代表的な戦いをご紹介いたします。

宮本武蔵と吉岡一族の壮絶な戦いは、宮本武蔵の戦い方や考え方を示すような戦いでした。

まず、吉岡清十郎との戦いでは、武蔵が一撃で彼の腕を砕くという非情ながらも武士道を重んじた戦いが展開されました。

武蔵はその後も吉岡一門を相手にし、その勝ちにこだわる姿勢で連勝を果たします。

吉岡伝七郎との戦いでは、武蔵が時間を守らずに遅刻するなどの策略を巡らせ、相手の精神を疲弊させる一方で、武蔵自身も吉岡一門の数に圧倒されます。

しかし、武蔵の巧妙な戦略により、伝七郎を打ち破ります。

最終的な吉岡又七郎との闘いでは、奇襲攻撃を仕掛けて吉岡一門の大将を斬り捨て、大混乱を招きました。

武蔵は手段を選ばない戦術を駆使し、最終的に全ての戦いに完全勝利します。

これらの戦いは、武蔵の戦略と剣技、そしてその勝利至上主義の考え方を具現化した戦いであり、彼の武道における不敗伝説を築いた瞬間でもあります。

宍戸梅軒は、吉川英治の小説『宮本武蔵』に登場する架空の武士であり、宮本武蔵との激闘が描かれたことで知られています。

彼は伊賀国の鎖鎌の使い手で、「宍戸八重垣流」を編み出したとされています。

物語では慶長10年(1605年)に宮本武蔵との壮絶な決闘を繰り広げ、その個性的な戦いぶりが注目を浴びました。

宍戸梅軒は武蔵との戦いで鎖鎌を駆使し、彼との一騎討ちでの死闘が小説の見どころとなっています。

物語の前半では野武士集団の頭目として登場し、武蔵との戦いを通じて主人公の成長を促す存在として描かれています。

ただし、宍戸梅軒は歴史上の実在人物ではなく、宮本武蔵の伝記『二天記』に登場する「宍戸某」をもとに吉川英治が脚色・創作したキャラクターです。

『二天記』自体が武蔵の死後に書かれたものであり、史料的な信頼性に乏しいとも言われています。

宮本武蔵の強さを象徴するエンタメ的な決闘。

それが宍戸梅軒との死闘です。

物語では宍戸梅軒が鎖鎌の使い手として武蔵と対峙するシーンが印象的であり、武蔵の成長とともに描かれる個性的なキャラクターとして、今なお根強い人気を誇っています。

▼吉川英治の宮本武蔵▼

宮本武蔵のイメージを作ったのは、この小説から。

読んだことがある方も多いはず。

この際に大人買いしてみては。

宮本武蔵が立ち合いを求めた相手の一人が、奈良の興福寺の僧兵である宝蔵院胤栄でした。

彼は十字槍の槍術・宝蔵院流を創始し、その名を全国に広めた存在です。

この時期、慶長9年(1604年)、宮本武蔵はすでに吉岡一門を倒し、さらに剣豪として名をあげる為、天下一の槍術家である胤栄との対戦を望んだのです。

しかし、胤栄は84歳であり、2代目胤舜はまだ16歳であったため、代わりに一番弟子の奥蔵院道栄と二度にわたり対戦しました。

両試合とも宮本武蔵が勝利したと伝えられています。

対戦後、二人は相手を認め合い、夜を徹して武術や人生について語り明かしたなんて事を言われています。

宮本武蔵は以前は相手を叩きのめし、その場を立ち去る事が多かったですが、この決闘により武蔵にも変化や成長があったようです。

後の宮本武蔵を形成した決闘。

それが、この決闘です。

「佐々木小次郎」の出自については諸説があり、生まれた場所なども分かっておらず、名前にも資料によって違いがあります。

まさに伝説上の剣豪。

宮本武蔵のライバルとして誕生した架空の人物ではないかとも推測されますが、実在の人物であったようです。

佐々木小次郎といえば巌流島の決闘。

小説や映画では、武蔵が意図的に遅刻して小次郎の平常心を奪う描写がなされることがありますが、これはフィクションであり、実際には両者は同時に相対し見事武蔵が勝利したそうです。

巌流島の決闘内容としましては、佐々木小次郎、3尺の白刃を持ち、武蔵は木刀で対峙。

勝負は一撃で決着し、小次郎が最期を遂げました。

しかし、沼田家記によれば、

武蔵は約束通りに1対1で船島を訪れず、弟子4人と上陸したとされます。

決闘は確かに1対1で行われましたが、武蔵の弟子たちが駆け寄り、小次郎を撲殺してしまったとの事。

事実であれば、現在の広く知られる宮本武蔵のヒーロー像は揺らぎ、佐々木小次郎に対する印象も異なっていたでしょう。

島原の乱における宮本武蔵は、無敵の剣豪として知られながらも、一揆鎮圧中に農民の投石で負傷し、立てなくなったエピソードが有名です。

島原の乱では、宮本武蔵は養子・伊織と共に出陣し、有馬家の原城に立てこもった一揆衆を鎮圧する役割を果たしました。

有馬家文書に残る「宮本武蔵書簡」には、一揆鎮圧直後の武蔵から有馬直純への書状が記されています。

その中で、「敵の落とした石に当たって、脛も立てないでいる」という一文が見受けられ、武蔵が戦で負傷したことが伝えられています。

このエピソードは、

無敵のイメージである宮本武蔵とのギャップが生まれ、実戦での能力に疑問視の声も上がりました。

剣豪としての実力があっても、一揆衆の巧妙な戦術には抗しきれなかったのかも知れません。

伝説の剣豪には息子がいました。

その名を宮本伊織

彼は15歳の頃、剣豪宮本武蔵の養子になった人物です。

では、宮本伊織も剣豪の息子に恥じない剣の達人であったのか?

剣豪の息子であった伊織とって、養父宮本武蔵をどのような人物であったのでしょうか?

宮本伊織を知ることで、宮本武蔵の強さがわかるかも知れません。

彼のプロフィールを少しお伝えしようと思います。

宮本伊織の出自は、最上家の浪人の子であった等と不明であったとされていましたが、最近では宮本武蔵の甥であるというのが定説となっています。

彼は武芸で立身したわけではなく、小倉小笠原藩の家老職を若干20歳で就任した秀才です。

また伊織の子孫は、代々小倉小笠原藩の筆頭家老を世襲し、宮本家は伊織により繁栄したといっても過言ではありません。

宮本伊織の略歴

  • 1612年11月13日生まれ(諸説あり)
  • 1626年播州明石藩主・小笠原忠真の近習として仕える
  • 1631年小倉藩へ移封、家老となる
  • 1638年島原の乱において侍大将として活躍
  • 島原の乱の活躍により筆頭家老となる
  • 1654年小倉郊外に宮本武蔵の偉業を伝える小倉碑文を建立
  • 1678年65歳で死去

宮本伊織が建立した小倉碑文は、養父宮本武蔵の偉業を讃える石碑です。

吉岡一門との決闘や巌流島の決闘など、代表的な宮本武蔵の決闘が記されており、この碑文を基に「二天記」や「武州伝来記」などが創作されました。

しかし、これらの決闘は本当にあったのかどうかは信じ難い部分もあります。

宮本武蔵が如何に強かったのか。

伊織は養父の偉大さを多少の嘘を交えながら喧伝したかったのかも知れません。

この小倉碑文は、武蔵没後10回忌の際、建立されたという。

今でも宮本武蔵を研究する者にとって第一級の碑文である事は言うまでもない事です。

宮本武蔵は剣豪というイメージが強いですが、クリエーターとしての側面も併せ持つ偉人なのです。

代表作は「五輪書」

現在では、海外でも人気を博すほどのベストセラーです。

哲学者の宮本武蔵としてのイメージが海外では強いのかも知れません。

また、絵画においても一流でもあります。

彼が残した絵も、多く存在しています。

宮本武蔵の真の強さとは?

これは、剣技のみならず、または剣技を哲学にまで昇華した才能ではないでしょうか。

無敗の剣豪である宮本武蔵。

晩年の島原の乱では、良いこともなく、負傷して引退しますが、彼の剣豪としてのイメージは損なわれることもなく、引退してから著した「五輪書」において、更に昇華されるという結果となります。

そして、息子・宮本伊織が建立した「小倉碑文」。

宮本武蔵の剣豪伝説が伝説を呼び、現代でも小説やマンガになるほどの人気者となるのです。

伝説に彩られた人生ですが、本当の強さとは、現在にまで残されている彼の思想や価値観が、誰かの心に残せる強さなのでしょう。

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