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【日本一の下剋上!】 三悪・松永久秀の数奇な人生

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アクの強い松永久秀が登場

▼真田丸▼

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戦国時代、最悪を繰り返した人物がいます。

その名を松永久秀。

三悪を成した悪漢であり、鮮烈な最後を遂げた戦国の梟雄として名高い人物です。

ドラマや小説では、織田信長の引き立て役で小狡い悪党として描かれている事が多い人物ですが、実は織田信長に多大な影響を与えた人物なのです。

三悪のヤバさや織田信長に影響を与えた事柄に触れ、日本一の下剋上・松永久秀に言及していきます。

悪漢だけではない松永久秀の魅力とは何なのかについて、一考してみてはいかがでしょうか

日本一の下剋上男・松永久秀は極悪人のような扱い方をされます。

下剋上とは、レベルが下と思われてる者が上に勝利を収めて、地位や権力を奪う行為です。

戦国期の下剋上は珍しい行為ではなく、北条早雲斎藤道三なども下剋上を成し遂げた武将なのです。

しかし松永久秀だけ、特段に極悪人とされています。

なぜ松永久秀だけ下剋上の極悪人とされているのか。

松永久秀の生い立ちと久秀が犯した罪について、お伝えいたします。

日本一の下剋上・松永久秀を知るキッカケにしてください。

松永久秀が何処で生まれ、どのような環境で育ったのかは謎に包まれています。

一説に斎藤道三とは旧知の仲であったとか。

いずれにせよ久秀は、出自不明の出身から三好長慶の祐筆として仕える事となります。

この三好長慶。

管領・細川晴元の下で辣腕を振るい、遂に主家に反旗を翻した下剋上男です。

自分がした業が自分に返ってくるのか。

長慶の祐筆として仕えた久秀は、みるみる内に頭角を表します。

遂には軍事指揮官に迄登りつめました。

全盛期の三好長慶は、人々から「三好政権」と言われるほど権力を手中にいれていました。

その軍事司令官である松永久秀は「天下の副王」と呼ばれる程の威勢を張る訳ですが、ここで終わらないのが日本一の下剋上・松永久秀なのです。

とある日。

織田信長が徳川家康に久秀を紹介する際、このように紹介したそうです。

「この老人は、普通の人では到底達成しない悪事を3つも成し遂げた人物であり、油断のならない悪人である」

この話が真実かどうかは、分かりませんが久秀の悪名は有名であったという事でしょう。

久秀が犯した悪事「三悪」について、それぞれ言及します。

「副王」と呼ばれた松永久秀ですが、その異名、本人は納得してなかったのでしょう。

俺はまだ到達してない。

そんな気持ちがあったのかも知れません。

確実に実力をつける迄、久秀は長慶の懐に入り、用心深く下剋上の機会を伺います。

三好長慶には、特に武勇に優れた息子と弟がいました。

優秀な息子と弟に囲まれ、安定した基盤の三好長慶。

この磐石の体制を、松永久秀は策を弄して取り巻きを排除していきます。

一説に松永久秀は、暗殺とも諫言とも、あらゆる手段で排除したと言う。

策に引っかかったとも知らない長慶は、失意のうちに亡くなります。

頼りは松永久秀ただ1人の状況を作ったのです。

三好長慶が亡くなると、久秀は三好家を取り仕切り、遂に乗っ取ります。

三好家か、長慶か、何かしら恨みがあったのか。

何やら復讐劇のような松永久秀風の下剋上でした。

三好長慶が亡くなり、三好義継という長慶の養子が当主になります。

しかし実質的に三好家を取り仕切っているのは松永久秀です。

長慶没後の三好家を思うがままに嬉々として取り仕切った事でしょう。

そして、もう1人。

三好長慶が亡くなって、嬉々として政務を取り仕切った人物がいます。

時の将軍・足利義輝です。

彼は長慶存命中、将軍なれど思いのまま政務を取れない事に歯痒い気持ちで一杯でした。

三好長慶没後、彼は室町幕府の権力回復に努めます。

さぞ、目の上のたん瘤が取れたような晴れ晴れとした気持ちだった事でしょう。

しかし、その動きを心良く思わない松永久秀の息子と長慶死後の重臣・三好三人衆

彼らは、遂に三好家当主・三好義継を概して、軍勢一万余りを足利義輝に向かわせ、打ち倒します。

この計画を企てた黒幕は、松永久秀と言われていますが真相は藪の中の迷宮入りでございます。

その後、松永久秀は三好三人衆と対立を深める事となるのでした。

足利義輝殺害後、松永久秀は足利義昭を、三好三人衆は足利義栄を、それぞれ推挙するに至り、双方の対立が激化します。

結果、大和での戦いに転じるのですが三好三人衆が陣立てしたのは東大寺です。

この東大寺攻めにより、東大寺大仏殿が焼失します。

松永久秀が、意図的に東大寺の大仏を焼き払った訳ではなく、不慮の事故なのですが、この東大寺大仏殿焼き払いにより、更に悪名が拡がります。

悪魔の所業。

仏敵・松永久秀。

仏教徒から目の敵にされる松永久秀。

松永久秀の軍は、キリシタン教徒が多くなるという結果になったそうです。

悪の華、下剋上の成り上がり者という烙印を押され、世間では嫌われ者である松永久秀ですが、クリスマスに戦闘を中止したという逸話があります。

久秀自身は、キリシタン教徒ではなかったのですが、キリシタン教徒が多かった松永軍に配慮して戦闘を中止したとの事。

クリスマスに戦闘を中止した逸話は、史実ではないのですが、このような逸話が出るほどに松永久秀は、悪名だけではなく、粋な部分もある文化人として知られています。

長年、三好長慶の祐筆を務め、政治・軍事の全てを任された人物です。

単なる運で成り上がった訳ではなく、教養も頭の回転も早い男である久秀の魅力は、その辺りにもあります。

その魅力に気づいた大名がいます。

その名を天下覇者に最も近いと言われた織田信長です。

織田信長も革新的な戦略家でもあり、天下布武のためには非情にもなれる人物として知られています。

相通じる部分があったのでしょう。

松永久秀に興味を持った織田信長は、久秀が持つ文化的な側面や非情さを真似るようになるのでした。

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織田信長が勢いを増すにつれ、松永久秀は信長に近づきます。

織田信長が持つ、革新性か、カリスマ性か、リーダーシップなのか。

単なる天下統一に近い人物だったので近づいたのかは、久秀自身しか知り得ません。

織田信長自身も久秀が持つ才能に興味を持っています。

松永久秀が織田信長に影響を与えた事

織田信長が松永久秀に感謝している事

  • 天守閣という概念や建築技法
  • お茶ブームの仕掛け人
  • 朽木越えの説得

松永久秀は奈良統治の為、新たに多聞城を築きました。

この城は日本初の天守閣を備えた城とされており、完璧な防御の上と美しさを兼ね備えた城です。

イエズス会の宣教師が、多聞城に訪れた際、世界中を探しても、これ程美しい城はないと、こぞって褒めそやしました。

この多聞城にインスパイアされて、信長が造らしたのが安土城と言われています。

織田信長は、松永久秀の持つ様式美と機能美という感覚を愛してやまなかったのでしょう。

織田信長といえば、お茶を政治に活用した人間としても有名です。

お茶ブームの仕掛け人と言っても良いでしょう。

しかし、信長がお茶にハマったのは、松永久秀の持つお茶器具やお茶の知識に触れたからだとも言われています。

戦国時代は空前のお茶ブームになります。

茶道具などは、超高値で売買されたほど。

晩年の豊臣秀吉は、お茶室を豪華絢爛な金の茶室に設えたのは、有名な話です。

お茶という世界の扉を開いたのが松永久秀であったとは、信長にとって、何とも魅力的な人物に見えた事でしょう。

1570年、織田信長は、朝倉義景を攻め滅ぼさんと兵を進めた金ヶ崎の戦いですが、ここで思わぬ裏切りにあいます。

突然の義弟・浅井長政の離反により窮地に陥ります。

史上有名な金ヶ崎の退き口という撤退劇。

この撤退劇に重要な役割を担ったのは、松永久秀です。

久秀は、信長に金ヶ崎からの単身撤退を強く提案したといいます。

そして信長が単身撤退に選んだ朽木街道というルート。

ここで最大の難関があります。

ここら辺一帯を統治している朽木元網は、代々足利将軍家に仕える立派な家柄です。

時の将軍・足利義昭と織田信長との関係は、悪化の一途を辿っている時に、果たして朽木元網は、すんなりと信長を逃してくれるのか。

そこで又しても松永久秀の登場です。

久秀は、朽木元網を必死の説得で翻意、無事信長を逃す事に成功するのでした。

この「朽木越え」ですが、徳川家康の「神君伊賀越え」のように小説・ドラマに取り上げられる事が少なく、マイナーな逸話として知られています。

登場人物の朽木元網が、その後パッとしなかったのも起因しているのでしょう。

とにもかくにも「金ヶ崎の退き口」、「朽木越え」による松永久秀の活躍により、織田信長は九死に一生を得たのは間違いのない事実です。

ますます信長にとって、久秀は使い勝手の良い悪漢として重宝していくのでした。

織田信長に数々の影響を与えた久秀ですが、松永久秀にとっての織田信長とは、どういった存在だったのか。

信長の持つ才能には惹かれるが、何かが引っかかる。

終始、作り笑顔を絶やさず過ごすのに疲れたのか。

それとも晩年の自分自身が、世の中を何も変えられない事実を否定したくなったのか。

松永久秀の心情は分かりませんが、久秀は信長に2度離反を企てる事となるのでした。

出る杭は打たれる。

織田信長という杭は、何度も打たれました。

世にいう「信長包囲網」というものです。

信長包囲網は合計三度あったとされ、一度目は金ヶ崎の戦いによる、思わぬ敗戦が起因して、石山本願寺や三好三人衆、長島一向宗などの敵対勢力が立ち上がりました。

そして二度目の信長包囲網。

あの甲斐の虎・戦国最強の武田信玄が遂に上洛に向け、動き出したのです。

武田信玄動く。

これに呼応して各地で信長敵対勢力が挙兵したのです。

この機会を待ってましたとばかりに松永久秀は、織田信長から離反します。

武田信玄の強さは無類であり、織田信長は倒されるだろうという大方の見方です。

この信玄の上洛作戦で有名な戦いといえば三方ヶ原の戦いです。

三方ヶ原の戦いで、徳川家康に大勝した信玄は、そのまま上洛すると思いきや突如、甲斐に引き戻します。

突然の信玄の死により第二次信長包囲網は瓦解し、敵対勢力は勢いを削ぎ落とされてしまうのです。

裏切りの松永久秀も当然、殺されてしかるべきなのですが、多聞城と茶器を信長に譲り渡すことで許されます。

一度ある事は二度ある。

織田信長に固執した人物がいます。

その人物とは足利義昭です。

どんな手段を使おうとも必ず織田信長を倒そうと執念を燃やす将軍様は、合計三度にも渡り、信長包囲網を画策したのです。

足利義昭の心情とは、織田信長への愛情と憎悪の複雑に歪んだ心情だったのかも知れません。

そして三度目の信長包囲網。

あの越後の龍・戦国最強の上杉謙信が遂に上洛に向け、動き出したのです。

そればかりではなく今度は、中国の覇者・毛利軍も包囲網に参加させるという鉄壁の包囲網です。

他にも宇喜多直家、武田勝頼、石山本願寺など錚々たるメンバーが参加しています。

このメンバーで次は勝てると踏んだ松永久秀。

性懲りも無くなのか。

よほどに信長へのライバル心なのか。

信長への愛憎の賜物なのか。

一度ある事は二度ある。

松永久秀も又、信長包囲網への参加を決意します。

上杉謙信の上洛作戦で有名な戦いといえば、手取川の戦いでしょうか。

こちらも柴田勝家に大勝した戦として知る人ぞ知る合戦です。

しかし、ここでも予期せぬ事態が起こります。

上杉謙信の急死です。

第三次信長包囲網は脆くも崩れ、松永久秀の下剋上も夢のまた夢に終わるのです。

一度ならず二度までも信長を裏切った久秀。

恐らく許されず、信長に殺されるであろうと皆が思っていたのですが、意外や意外、信長は久秀所蔵の茶道具を渡せば許すと申し付けます。

織田信長にしては寛大な処置ですが、松永久秀に裏切られても、どこか憎めない部分があったのでしょう。

それとも悪漢・松永久秀を許す事で自分を大きく見せようとしたのか。

しかし松永久秀は、信長に恭順の意を示さず、戦う事を選択します。

▼下剋上・松永久秀の足跡を訪ねてみては▼

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松永久秀の最後は鮮烈極まります。

織田信長に反旗を翻した久秀は、信貴山城に立てこもります。

そこで信長は再三に渡り、名器・平蜘蛛を譲り渡せば命を救うと申し付けます。

しかし松永久秀、ついぞ何も変えられない自分か、期待外れだった信長包囲網への失望か、織田信長に降伏する事はなかったのです。

そして最後は、信長が所望した平蜘蛛に爆薬を詰め、日本初の爆破というダイナミックな死に方をするのでした。

こうして日本一の下剋上・三悪の松永久秀は最後を迎えました。

松永久秀とは

  • 出自が不明ながら三好長慶・織田信長に才能を買われた優秀な人材
  • 織田信長は松永久秀に影響された部分が多い
  • 織田信長は松永久秀に救われた経験がある
  • 三悪を成した悪漢とされている
  • 2回も織田信長を裏切っている
  • 最後は日本初の爆死をした人物

松永久秀は、アクの強い人物です。

しかし、天性の才能があり優秀極まる人物でした。

あの織田信長に二度も裏切り、二度も許された人物。

最後は爆死という誰も真似したことがなかった死に様を見せます。

単なる悪漢だけでは収まらない人物。

それが松永久秀です。

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