スポンサーリンク

#こんにちは、当ブログの管理人です。当ブログではアフィリエイト広告を利用しております。

それでは、ごゆっくりとご覧ください!

【愛妻家】毛利元就の三本の矢の教え!

ランキング参加中
歴史
この記事は約28分で読めます。
記事内に広告が含まれています。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

策士のイメージ:毛利元就の実情とは?

毛利元就といえば、陰気で老獪な謀略家。

そして年寄りのイメージがつきまといます。

これは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代よりも前の時代の人物であり、どうしても年寄りのイメージになってしまいます。

そして、

毛利元就の具体的な功績においても、三英傑よりも前時代の人物という事もあり、よく知らないという方も多いでしょう。

知っていることといえば「毛利の三本の矢」ぐらいでしょうか。

広島県や山口県など中国地方一帯に覇を唱えた大勢力の大名とだけは、分かっているけれど、ピンとこない。

それが毛利元就の現状でしょう。

確かに権謀術数に長け、一代で中国地方をほぼ統一した、やり手の大名であることは、間違いないのですが、家族を大事さを息子にも伝え、三兄弟は生涯、仲違いをせず毛利家を支え続けるのです。

この家族愛が、後の「三本の矢」となり、代々毛利家の家訓となります。

毛利家の義理堅さが、信頼され、毛利家の隆盛につながるのですが、毛利家の義理堅さが豊臣秀吉の中国大返しにつながり、結果、毛利家の衰退につながるとは皮肉な巡り合わせです。

しかし、幕末の長州藩は、毛利元就の教えである一致団結を教訓に、討幕運動の一大勢力となり明治時代樹立に大いに貢献し、毛利家が再び脚光を浴びる日がくるのです。

この興味深い毛利元就。

側室を持たず、生涯妻のみを愛した戦国時代では珍しい「愛妻家」として知られています。

はたして毛利元就は、妻だけを愛する「愛妻家」なのか。

妻が恐ろしく側室を持たなかった「恐妻家」なのか。

毛利元就の人物像に迫っていきます。

愛妻家:毛利元就とは

戦国時代でも「愛妻家」と呼ばれる大名はいます。

例えば、黒田官兵衛なども側室を持たず、正室のみを大事にした人物です。

これは黒田官兵衛自身がキリシタンであるため、側室を持たないという教義上の理由の方が強く作用しています。

では、毛利元就はどうだったのか。

毛利元就の人生を振り返っていきます。

・毛利元就の特徴

毛利元就は、1497年(明応6)3月14日誕生しました。

織田信長が、1534(天文3)年5月12日

元就と信長は、37歳差となります。

当主の相次ぐ死により、元就は、27歳で毛利家当主となります。

年齢的には、決して若くない年齢の元就ですが、ここから一地方領主であった毛利家を中国地方の大半を制する大大名として、成り上がりました。

毛利元就は、20歳ごろに「妙玖」(みょうきゅう)」と結婚し、27歳ごろには、長男である隆元が生まれています。

家督を継いで、妻子がいる身である元就は、家族を守るために、必死に成り上がろうとしたのかも知れません。

・厳島の戦いを経て、西日本最大の戦国大名に!

毛利元就は、暗殺や寝返り、買収など、勝ちに繋がるためならば、どんな方法でもする謀略家です。

毛利元就の特徴は、偽情報を流す、不利な土地を有利であると思わせるといった「騙し」が得意な人物でした。

もっとも元就の特徴を表した合戦が日本最大奇襲戦と言われる「厳島の戦い」です。

この戦いは、大大名で名家であった大内氏の部下であった陶晴賢(すえはるかた)のクーデーターから端を発しています。

この陶晴賢と対立したのが、毛利元就・隆元親子です。

1555年(弘治元年)ついに陶晴賢 vs 毛利元就の厳島の戦いが開戦します。

数に劣る毛利元就は、初めに陶晴賢側の重臣「江良房栄」(えらふさひで)」を寝返らせようとしますが、上手くいきません。

そこで、元就は「江良は陶晴賢を裏切って、謀反を企んでいる」というデマを流し続けるのです。

疑心暗鬼になった陶晴賢は、とうとう江良房栄を処分し、元就は戦わずして、陶方の戦力ダウンに成功します。

そして、元就は主戦場を「厳島」に選びます。

選んだ理由は、陶晴賢をおびき寄せるため、あらかじめ「厳島」は攻めやすく、毛利方に大打撃を与えることができるという噂を晴賢に流し込んだからです。

水軍の強さが自慢の陶晴賢は、悠々と厳島神社の東側に陣を構えて開戦を待ちます。

そこで、事前に村上水軍を味方につけていた元就は、奇襲戦法に出て、陶晴賢を討ち取るのでした。

「厳島の戦い」で勢いに乗った毛利元就は、西日本最大の戦国大名となるのでした。

毛利家は、毛利元就がほぼ一代で、築き上げ、幕末まで、家を存続させたのです。

同世代には、クセのある戦国大名が数々存在します。

例えば、武田信虎などもクセのある人物です。

・三本の矢にこめられた君たちは、どう生きるか!?

毛利元就で有名な逸話は「三本の矢」です。

これは、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の息子たち三兄弟に、一本の矢では折れるが三本の矢では、なかなか折れないことから、兄弟の結束力を高める教訓として残したとされる逸話です。

この逸話は、創作と見る向きが強いですが、その後の毛利家の在り方や三兄弟の人生を物語っているような逸話です。

毛利元就は、嘘とハッタリで成り上がった人物としての側面があります。

この「三本の矢」の逸話。

もし元就が息子たちに送った言葉なら、教訓めいた言葉ではなく、他に何かを考えさせられる余白めいたものを残したのではと思えずにはいられません。

三人の息子は、三本の矢を聞いて、どう感じ、どう生きたのかは、歴史が証明しています。

・元就の愛妻家エピソード

毛利元就は、正妻・妙玖が亡くなるまで、側室を持たなかったことで有名です。

そして、妙玖が47歳で亡くなると、元就は、その死を悼み、三日三晩、部屋に引き篭もったそうです。

また、妙玖の墓を作ると「妙玖庵」という名をつけ、息子にも、母の弔いを欠かさないように厳命しています。

長男である毛利隆元は、毎朝早朝に起き、100回念仏を唱えるのが日課だったそうです。

元就は、よほど妙玖の死がこたえたのか、早々に隠居し、事あるごとに「妙玖がいたら」、「妙玖がいないと話し相手がいない」、「妙玖の事を今でも思い出してしまう」といった手紙を息子に送り続けています。

この夫婦を見て育った三兄弟は、父を真似て、三人とも側室を持たなかったのです。

毛利家の家訓といえる「妻を大事にする」は、環境からきた家訓であるといえます。

とにかく妙玖は、旦那の手綱をしっかり持った良妻賢母であったことは、間違いないでしょう。

毛利元就の3兄弟

毛利元就・妙玖夫婦のDNAをしっかりと引き継いだ三兄弟は、どのような人生を歩んだのでしょうか。

毛利家のその後の在り方を決定した三人三様の人生を振り返っていきます。

・毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の其々の人生

・毛利隆元

毛利隆元は、1523年(大永三年)生まれ、織田信長よりも11歳、ほぼ一回りの年齢差です。

幼少期より大内氏へ人質に出され、隆元の性格形成は、その頃より出来あがります。

元服すると大内義隆の「隆」の一字を貰いうけていますので、とても高待遇であったのが伺われます。

大内義隆の影響により、文学好きの内向的な性格だったようです。

また26歳にころに結婚した尾崎局へは、よくラブレターを書いたほど夫婦仲は良かったそうです。

息子に毛利家当主になる毛利輝元がいます。

1546年(天文十五年)毛利隆元は、毛利家の家督を譲り受けますが、実質は元就の補佐といった形で、実質の権限は、父親である元就が握っていました。

毛利隆元の強みは、戦さ働きのいわゆる猛将ではないですが、文学への傾倒や誠実な性格によるものか、内政や経済、商人との折衝などに能力を発揮します。

しかし、長らく父親の補佐のような立場であったため、二人の弟には、バカにされていると感じていたようです。

ネガティブ思考の強い隆元は、度々、父・元就に当主としての自信のなさを吐露した手紙を何通を書いています。

中には、元就が隠居したら、自分は能力がないので、自分も隠居して、息子に家督を譲るとの弱音をはいた手紙も残っています。

隆元は、40歳の若さで亡くなりますが、隆元が亡くなると毛利家の経済が一気に傾きます。

内政にかなりの能力を有していた証拠でしょう。

もし、隆元が長生きしていたら、毛利家の生き末は、もう少し違った形になったのかも知れません。

・吉川元春

吉川元春は、戦国時代でも屈指の猛将で、戦さで負けたことがないほどの軍事の天才でした。

76戦無敗といわれており、唯一の負け戦が弟・小早川隆景との雪合戦だったとされています。

この軍事の天才は、卓越した軍事の才だけではなく、文学の才もあったようで「太平記」の写生を完璧に模写しました。

兄・隆元に劣らず、高い教養を持ち合わせた元春は、父・兄同様、愛妻家として知られています。

18歳の頃、毛利家の重臣である熊谷信直の娘・新庄局と結婚しています。

この新庄局ですが、戦国当時では、美人の類ではなかったそうですが、熊谷信直との関係強化のために結婚しました。

しかし、よほど気が合ったのか、生涯、側室を持たなかったほどです。

豊臣秀吉による「中国大返し」では、秀吉追撃を主張した元春でしたが、小早川隆景に諌められます。

この一件から、秀吉政権下では、あまり日の目を見ずに生涯を終わる不運な武将でもあったのです。

・小早川隆景

「長く思案し、遅く決断すること」

この名言は、小早川隆景が言ったとされていますが、この言葉通りの人生を歩み、毛利家を幕末まで存続させた戦国武将です。

「中国大返し」においても、即時追撃を主張する兄・元春を諌め、秀吉の天下統一に一役買ったと言っても過言ではない決断をします。

隆景は、秀吉に「西は小早川隆景に任せておけば、大丈夫」と言わしめるほど、信任が厚く、有能な人物でした。

また、隆景は、水軍を束ねていた統率力と水軍を利用した情報収集能力が突出しており、その才で外交面や政務を担当しています。

私生活では、正妻である門田大方(といだのおおかた)との間には、子供がいなかったが、生涯側室を持たず、仲が非常に良かったそうです。

非常に先見の明があり、早くに豊臣秀吉の器に築いた人物でもあります。

「足るを知る」隆景は、毛利家の行末を常に心配しており、秀吉に積極的に取り入っています。

また、秀吉は、毛利本家を乗っ取ろうと自分の甥を毛利家の養子にしようとしますが、隆景は、自分の養子(後の小早川秀秋)に迎え入れ、毛利本家を守ります。

小早川隆景がいなければ、毛利家は早くに滅亡しており、その後の長州藩の討幕、明治を迎えなかったかも知れません。

毛利元就に見る夫婦像とは?

毛利元就は、一代で中国一帯をほぼ手中に収めた成功者です。

その成功には、妻である妙玖の存在が欠かせません。

元就の一番の理解者である妙玖は、相談相手として信頼されており、重要な政治的決断にも、彼女の意見を取り入れたそうです。

この夫婦は、家族を大切にし、子供たちの教育や将来にも配慮していました。

子供たちには家督を継ぐ準備をさせるだけでなく、学問や文化にも興味を持たせるなど、幅広い教育を重視していたようです。

毛利家の教えを守った三人の息子たちは、側室を持つこともなく、温かい家庭を築きました。

毛利元就・妙玖は、共に支え合い、パートナーシップを醸成し、戦国時代を生き抜いた夫婦として、後の時代にも語り継がれる夫婦として、その名を残したのです。

タイトルとURLをコピーしました