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【学び直しの日本史③】借金をなかったことにする鎌倉時代を勉強しよう!

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歴史
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庶民に厳しい鎌倉時代の顛末

鎌倉時代は、初めて武士が主体となって運営した時代です。

そして、京都という都から離れ、鎌倉という独立した政治支配体制が出来上がった時代でもあります。

強い者が引っ張っていく実力主義の時代でもあり、強い者の専横が後々、時代を終焉に向かわせるといった時代なのです。

1192年に源氏の棟梁である源頼朝が、鎌倉に幕府を創出して、約150年余り、1333年に鎌倉幕府が滅亡し室町時代に突入します。

滅亡した原因は、何だったのか。

これといった決定的な原因というよりも、様々な原因により、一気に討幕へと進んだのが鎌倉幕府の滅亡です。

その原因の一つであるのが、1297年に発布された永仁の徳政令です。

これは、御家人の借金をなかったことにした法律であり、天下の悪法として有名です。

これにより、御家人の生活は豊かになったのか?

答えは、この法律により、御家人の生活は、ますます苦しくなったのです。

天下の悪法である徳政令を主体に、鎌倉幕府が瓦解するに至る鎌倉時代について、愚見を述べようと思います。

特に武家社会樹立と後の室町幕府に至るターニングポイントである鎌倉幕府をストーリーで学んで、日本史の学習に役立たせていただければ、幸いです。

まとめとして、鎌倉時代の年表や比較表なども記載しています。

ストーリーで学ぶ鎌倉時代とは?

鎌倉時代を知るには、鎌倉時代に至る背景と鎌倉幕府内部でのパワーバランス、世界情勢を把握することによって、より分かりやすくなります。

強い者が強い立場になるのは、理由があるものです。

鎌倉時代前の時代背景から鎌倉時代の瓦解までを、簡潔にご説明したいきます。

・鎌倉時代までの背景

人々は、平安時代という永遠に続くような長い時代を公家という貴族中心の世の中で、生活し息づいていました。

しかし、世界に変化がないと権力は集中し、富裕層はますます富を一手に担うものです。

ある程度の家柄の貴族でも、都では出世も富も手に入れないと悟り、地方に出て行き、収入を得ようとします。

元皇族の源氏や平氏が台頭するのは、その頃です。

世の中は、事実上、律令制が崩れ、荘園制度によって私服を肥やす者が増え、農民は搾取され続けました。

また国司になるために賄賂につぐ賄賂と汚濁にまみれた時代でした。

自分の地位や権力にしか興味のない公家による政治は、混迷を極め、貧富の差がますます激しくなり、都も地方も無法地帯のような状況。

自分の身は自分で守らなければならない状態から生まれたのが自衛集団である武士集団です。

・平氏か源氏か、傑物・平清盛の誤算

・平清盛の意業

武士の台頭から、数年後には、武士が公家に代わって世の中に主導権を握るのですが、武家の2大グループといえば、平氏と源氏です。

特に平氏の代表といえば、平清盛。

平清盛は、公家政治を踏襲し、外戚政策を行い、自分を高位の身分にし実権を握ります。

俗にいう「六波羅政権」と呼ばれるもので、清盛は武士として初めて太政大臣になった人物でもあります。

また経済においても、太政大臣になった清盛は、現代の兵庫県に位置する大輪田泊を港として改修し、中国の宋との貿易を活発にします。

日宋貿易を活発にすることで、外貨を稼ぎ、国を豊かにしたということです。

この外戚政策と日宋貿易の二つを軸に、平清盛は富と権力を一代で築いた人物であり、当時の平家一門は、平家でなければ人に非ずと言われるほど、栄華を極めた武士の棟梁なのでした。

・平清盛がいなければ、源氏の世の中にならず

富と権力を一代で築いた男・平清盛。

さぞ、悪漢極まれり政治家のように思われるかも知れませんが、さに非ず、非常に穏やかで優しい性格であったそうです。

平清盛の性格を知るエピソードとしては

・身分の低い人間にも、丁寧に接し、見下すことがなかった

・朝、従者に布団をかけて、起こさないように気を遣った

・失敗した部下を怒鳴って、萎縮するような行為をしない

・失言をした人間に、ジョークで返すほど、機知に飛んだ人物であった

とても器の大きい人物であったのが、伺い知れます。

その清盛の優しさが、平家没落の要因になるのですから、人に優しくするのも、時と場合によるのかも知れません。

このキッカケが、平治の乱の後の源氏の棟梁であった源義朝の息子、頼朝・義経兄弟の処分です。

なんと、平清盛は、頼朝・義経兄弟を死罪にせず、流刑にし、命を助けるのです。

当時でも、敵の後継ぎを処分しないということは、あり得ない事態なのです。

この処分の甘さから、隆盛を極めた平氏は没落し、源氏が台頭するハメになるのです。

・軍事の天才源義経と奥州藤原氏

源氏大躍進の功労者といえば、源義経でしょう。

源義経は、7歳の頃に京都の鞍馬山に預けられ、学問に励みます。

しかし、自分の境遇を知ると、打倒・平氏という復讐心に火がつき、鞍馬寺を抜けだし、奥州藤原氏の元に身を寄せます。

この鞍馬山時代に天狗から兵法を学んだという伝説も残っているほどです。

そして、奥州藤原氏の当主であった藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に可愛がられ、庇護を受けます。

1180年以仁王(もちひとおう)が平家追討を発令すると、兄である源頼朝が挙兵するとの噂を聞きつけた義経は、兄の下に馳せ参じます。

そして、ここから源義経の軍事の才が光るのでした。

源義経は、なぜ強かったのか。

それは一の谷、屋島、そして壇ノ浦の戦いの勝ち方で分かる通り、勝つためには手段を選ばないマインドと奇襲戦という戦法を得意としたからです。

当時としては、凶暴さと非情さを持ち合わせた極めて危険な人物として映っていたことでしょう。

その後、この軍事の天才は、兄・頼朝に疎まれます。

疎まれた理由として

・兄の家来を自分の家来のように扱い、不遜な態度であったから

・戦いがいつも奇襲戦法での勝利であることから正攻法の勝利がないから

・勝手に後白河法皇に官位を貰ったから

このような理由で源頼朝は、他の源氏・武家に対して示しがつかなくなり、義経を切り捨てる決断をします。

困った源義経は、古巣であり、父親のような存在であった秀衡がいる奥州藤原氏を頼ります。

しかし、時代の流れに逆らうことができず、秀衡の息子たちは、源義経を頼朝に差し出す形で服従を誓い、その後、奥州藤原氏は滅亡するのでした。

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・フィクサー北条義時の北条執権時代

源頼朝が1192年鎌倉幕府を樹立し、源氏の世の中になるかと思いきや、鎌倉幕府内での派閥争いに勝った北条氏の天下になります。

その後、源氏を傀儡将軍として、北条氏は執権となり、鎌倉幕府を裏で操ることとなるのでした。

北条執権体制の北条氏と鎌倉幕府将軍の表は、こちらになります。

将軍9代執権17代
源頼朝
源頼家北条時政
源実朝北条時政/北条義時/北条泰時
藤原頼経北条泰時/北条経時
藤原頼嗣北条経時/北条時頼
宗尊親王北条時頼/北条長時/北条政村
惟康親王北条政村/北条時宗/北条貞時
久明親王北条貞時/北条師時
守邦親王北条師時/北条宗宣/北条煕時
北条基時/北条高時/北条貞顕
北条守時/北条貞将

執政として、北条氏が如何に絶大な権力を持っていたのかが分かります。

・キッカケは元寇

鎌倉幕府で絶大な権力を持っていた北条氏。

そのことが、鎌倉幕府を歪な方向に進ましてしまうのです。

キッカケは、元から送ってきた5通の手紙です。

その手紙には、当時、世界最強と謳われた元から日本に対等の友好関係を結ぼうとする手紙です。

しかし、再三に渡る元からの手紙を執権・北条時宗は無視し続けます。

とうとう痺れを切らした元の皇帝であるフビライ・ハンは、1274年、2万数千の兵力を投入し、日本を攻めることを決断します。

これが「文永の役」、元寇と呼ばれる戦争です。

文永の役は、圧倒的な元の強さにより、瞬く間に九州・博多辺りを占拠されます。

しかし、翌日になると元は日本から撤退します。

これは、元の武威を日本に示すための行動であり、本気で日本侵略を目指していなかったとされています。

しかし、元の武威を示すための行動が、逆に鎌倉幕府を刺激し、頑なにします。

国交を結ぶために送った元の使節5人を処刑してしまうのです。

この事により、元がいよいよ本気で日本の侵略を目指します。

1281年、再び元が日本に侵攻してきました。

これが「弘安の役」と呼ばれる戦争です。

結果は、暴風雨により、元が撤退を余儀なくなったとされていますが、実際は、執権・北条時宗が「文永の役」の大敗北から学び、準備のために「異国警固版役」(いこくけいごばんやく)と称し、兵力と防護力を着々と整えたところが大きいでしょう。

また、元独自の戦法も真似、戦法も大幅に変更したところにも起因しています。

このように「弘安の役」は、暴風雨・防御力の強化・戦法の変更により、元寇から日本を守ったのでした。

しかし、この元寇による大幅な戦費が、鎌倉幕府瓦解の原因にもなるのです。

・永仁の徳政令で幕府瓦解に追いやられる

1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」の2度に渡る元寇は、御家人の激しい抵抗により、日本を守ることができました。

しかし、鎌倉幕府は、必死の抵抗をし、日本を守った御家人に充分な報酬を与えず、御家人の生活は貧窮したのです。

当時の報酬といえば、土地ですが、元からの侵略を防いだだけですので、与える土地がないというのが原因です。

そして鎌倉時代といえば、貨幣経済が流通しだした時代でもあります。

鎌倉幕府も元寇により、報酬として与える土地も金もない状態だったのです。

私財を投げ打って日本を守った御家人ですが、幕府からの報酬がない。

いわゆる「やりがい搾取」にあった御家人は、生きていくために借金を重ねます。

そこで鎌倉幕府は、1297年永仁の徳政令を発布します。

御家人が金を借りるために、質に出した土地・家屋などをタダで取り戻せたり、借金を帳消しにできるといった法律です。

しかし徳政令によって、一時的に御家人は借金がチャラになっただけで、生活ができるわけではないので、困窮は変わらなかったのです。

そして、借金を踏み倒された金融業者は、以降、御家人に融資しなくなるという悪循環に陥ります。

徳政令が発布された影響により、御家人はますます困窮していき、倒幕への機運が高まっていきました。

鎌倉時代の出来事年表

鎌倉時代の年表ごとにまとめました。

年代出来事注釈
1156年 保元の乱後鳥羽上皇死去
1159年平治の乱平清盛vs源義朝
1167年平清盛・太政大臣日宋貿易
1180年源頼朝挙兵石橋山・富士川の戦い
1181年平清盛死去
1185年平氏滅亡屋島・壇ノ浦の戦い
1189年源義経死去
1192年源頼朝征夷大将軍就任鎌倉幕府成立
1199年源頼朝死去
1203年北条時政執権就任源実朝将軍に就任
1206年チンギスハン・モンゴル帝国建国
1219年源実朝、公暁に暗殺される源氏正統将軍3代で途絶える
1221年承久の乱
1274年文永の役執権・北条時宗の活躍
1281年弘安の役元寇により、経済不安に陥る
1297年永仁の徳政令
1324年正中の変後醍醐天皇倒幕失敗
1331年 元弘の変後醍醐天皇、隠岐に流罪
1333年鎌倉幕府滅亡足利尊氏・楠木正成・新田義貞

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時代は鎌倉から室町へ、2つの時代の比較対象が分かりやすい

鎌倉幕府は、様々な要因により滅んでしまうのですが、後を継いだ室町幕府も、鎌倉幕府を踏襲した政治形態です。

2つの幕府を比較することで、より理解しやすくなります。

以下に鎌倉時代と室町時代の比較表を添えておきます。

幕府鎌倉幕府室町幕府
場所鎌倉京都(南朝は奈良・吉野)
主従関係ご恩と奉公有力大名の集合体
将軍の補佐執権管領
司法・警察機関問注所・侍所問注所・侍所

鎌倉幕府は、今までの貴族中心の社会から武家中心の社会へと変貌を遂げたターニングポイントとなる時代です。

しかし、元からの侵略に抵抗し、それが原因で幕府の屋台骨を揺るがすことになりました。

また、鎌倉幕府を設立した源頼朝の子孫は、三代で途絶え、政治は北条氏の執権政治へと移行します。

時代のうねりの中で、武家中心の新しく設立した鎌倉幕府もまた、時代の流れに逆らうことが出来ず、室町幕府に取って変わられてしまうのです。

その室町幕府も鎌倉幕府同様、将軍はお飾りになり、戦国時代に突入することとなります。

「歴史は繰り返す」

まさに両時代は、その言葉通り、衰退の道を進んでいったのです。

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