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【天下の歴史が動く】三成絶対絶命 七将襲撃事件は家康が黒幕か!?

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歴史
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七将襲撃とは?

天下を激震させた大事件が起こりました。

豊臣秀吉崩御により石田三成への不満が形になったもの。

それが七将襲撃事件です。

徳川家康が黒幕という説もある七将襲撃事件。

古来より様々な歴史家や小説家が、七将襲撃について考察しています。

その説で最も有名なのが

司馬遼太郎の「関ヶ原」です。

果たして徳川家康の暗躍が石田邸襲撃を引き起こしたのでしょうか。

石田邸襲撃事件の顛末は?

詳しく見ていきましょう。

七将襲撃の原因

七将襲撃の直接の原因は、朝鮮出兵にあります。

無理に無理を重ねた朝鮮出兵は、戦費の増大、食料難による飢餓や疲弊、慣れない土地でのストレス。

様々な要因により大名や兵士は限界を感じていました。

それと敗戦に次ぐ敗戦、恩賞のない戦いにより、現地の不満は頂点に達していたのです。

しかしながら天下人である秀吉を怨む訳にはいかず、矛先は五奉行に向いたのでした。

五奉行とは?

五奉行とは、豊臣政権の実務を担当する役割で設置されたものです。

晩年の秀吉は、自分の死後も安定した政権を維持、或いは愛息・豊臣秀頼のサポートをする為に五奉行を設置したとも言われています。

五奉行のメンバーを表にまとめました。

奉行名人物
石田三成事件の被害者であり関ヶ原のもう一人の主役
前田玄以京都所司代として優れた政治能力を持つ実務家
浅野長政五奉行筆頭。関ヶ原や大坂夏の陣では徳川方
増田長盛優秀な実務家ですが関ヶ原では三成方に。後に自害を命じられる。
長束正家算術で立身出世した人物。最後は切腹し三条大橋で首を晒される。

石田邸襲撃にあたった武将

度重なる朝鮮出兵で疲弊した秀吉子飼いの武将は、五奉行でも筆頭のような存在である石田三成の屋敷を襲おうとしました。

抗議のために集結したようですが、小説やドラマでは、石田三成憎しが増大し三成亡きものにしようと集まったとなります。

七将は、秀吉存命の頃、特に可愛がられた武将が多く、石田三成が気に食わない或いは石田三成の讒言により、秀吉に疎まれた武将です。

七将の面々も表でまとめてみましたので、ご参考に。

武将人物
加藤清正豊臣秀吉に可愛がられた武将で賤ヶ岳の七本槍の一人。幼少期の名は虎之助。虎退治で有名。
福島正則同じく秀吉子飼いの武将。
賤ヶ岳の七本槍で有名。酒癖が悪い。
蜂須賀家政蜂須賀小六の息子。勇猛果敢で有名。
黒田長政黒田官兵衛の息子。調略などでも活躍する策士
藤堂高虎次々と主君を変えたことでも有名。築城の名人
細川忠興妻は細川ガラシャ。癇癪持ちだが茶人としても有名な武将。
浅野幸長五奉行浅野長政の息子。同じく五奉行の長束正家・石田三成とは反りが合わなかった。

#諸説あり

家康は本当に黒幕なのか?

三成憎しの七将が集まり、石田邸を襲撃した訳ですが、徳川家康の介入により事なきを得たと小説やドラマなどでは表現されています。

実際は、そのような描写がないのが専らの史実らしいのですが、物語を盛り上げる上での演出なのです。

石田三成対徳川家康。

五奉行対五大老。

この対立があり、関ヶ原の戦いに発展する。

そうした方が、分かりやすく説明がつくからでしょう。

では五大老とは、どのような大名が選出されたのでしょう。

次に五大老をご紹介します。

五大老とは?

五大老とは、豊臣政権下において最も力のある五人の大名であり、主に豊臣政権の政務を司る役目を担っていました。

現代風に言えば、五大老が政治家、五奉行が官僚といった感じでしょうか。

また五奉行は秀吉の直属の部下に対し五大老は実力でのし上がった大名が多いのが特徴です。

五大老とは、どのような大名でしょうか。

大名人物
徳川家康ご存知、江戸幕府を開いた人物。
前田利家秀吉の朋友。加賀百万石の歴戦の強者。
宇喜多秀家宇喜多直家の息子。特に秀吉に可愛がられた大名。関ヶ原敗戦後は八丈島に配流。
上杉景勝名門上杉家の当主。上杉家がキッカケで関ヶ原の戦いに。寡黙すぎる大名として有名。
毛利輝元西軍総大将。もし輝元が出陣していれば勝敗も変わっていたかも。

三成と家康の関係性

石田三成と徳川家康は、関ヶ原の戦いでの敵対関係から仲が良くなかったと言う意見が多くあります。

しかし、関ヶ原の戦い以前は、お互いの力量を認めあった仲であったとする説も多数あります。

本当は仲が良かったのか。

はたまた仲は悪かったのか。

一つ言える事は、良くも悪くもライバルであったと言う事でしょう。

見解の相違や価値観の違いから、すれ違いが起こり戦いに発展してしまった2人。

2人の方向性が同じであれば、豊臣政権か徳川政権で支え合う2人であったのではないでしょうか。

▼豊臣秀吉の記事は▼

事件の顛末

石田三成は、七将の襲撃にあうも機転を利かして、事件の黒幕である徳川家康に庇護を求めた。

と言うのは小説やドラマの世界のお話で、実際は自身の屋敷がある伏見に逃げおおせたのです。

しかし翌日には七将に屋敷を取り囲まれ、双方の調整役となったのは家康です。

徳川家康は、七将の三成引渡しを拒否し、その代わり三成を隠居させる事などを条件として事件を終結させました。

ちなみに三成の居城である佐和山城に送り届けたのは、家康の次男である結城秀康です。

三成は、秀康に感謝の証として刀を贈答し、秀康は、その刀を「石田正宗」と号して一生大事にしたそうです。

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石田邸襲撃は関ヶ原の布石だった!?

七将襲撃事件は、豊臣政権の脆弱さを露呈する事件であり、この事から関ヶ原の戦いに転じました。

徳川の世の中になるキッカケ。

それが石田邸への襲撃です。

石田邸襲撃をまとめると

  • ・朝鮮出兵の不満が五奉行への憎しみとして現れた事件
  • ・石田邸襲撃は七将と呼ばれる秀吉子飼いの大名による事件
  • ・事件の調停役を引き受けたのは徳川家康
  • ・石田三成と徳川家康は必ずしも仲が悪かった訳ではない
  • ・五大老と五奉行の不協和音が露呈した事件でもある
  • ・関ヶ原の戦いのキッカケにもなる事件でもあった

歴史が移る瞬間が関ヶ原の戦いとして、石田邸襲撃は歴史が変わる瞬間だったのです。

多くの歴史家や作家が語る七将襲撃事件。

歴史のターニングポイントがギュッと濃縮された人々の興味が尽きない大事件である事は間違いのない事実です。

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