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【大工を作った偉人】聖徳太子は大工の神様?

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歴史
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大工の始まりは聖徳太子だった!

家を建てるときに活躍するのが、大工さんです。

徳川幕府になると、職人である大工の需要が増え、大御所になった徳川家康の「駿河城」、天下普請で技術の粋を集めた「江戸城」も大工が大活躍したのです。

その大工さんの起源が、飛鳥時代に遡るのを、ご存じでしょうか?

江戸時代では、大工・左官・鳶といえば「華の三職」と呼ばれ、成りたい職業No.1であり、モテる職業でした。

今でいう3B(バーテン・美容師・バンドマン)といったところでしょうか。

そして、江戸時代に華の三職と呼ばれた職業を作ったのが、かの有名な聖徳太子なのです。

現代でも、大工の神様として崇めらている聖徳太子は、大工制度を通して、何を叶えようとしたのでしょうか?

そこには、聖徳太子の悲願が隠されていたのです。

聖徳太子が大工を作ったわけ

飛鳥時代、聖徳太子が創設したと言われる大工という職業ですが、どういった背景から創設したのでしょうか?

飛鳥時代とは、今までの神を祀ることで維持された支配体制から法律を順守することで維持される律令国家へと変貌を遂げた時代でした。

すなわち、国としての基盤ができた初めての時代です。

その中で日本という国を諸外国に認知してもらうために聖徳太子は、さまざまな制度を設け、国家の基盤を作るために尽力したのです。

聖徳太子には、新しい国家体制を作るために、大工という職業が必要だったのです。

聖徳太子の偉業の足跡をなぞると共に、その時代の大工の役割とは、一体何だったのでしょうか。

・聖徳太子の偉業

飛鳥時代の立役者である聖徳太子は、さまざまな偉業を成し遂げ、日本という国を新しい国家体制に生まれ変えました。

聖徳太子が打ち立てた4つの政策

1:冠位十二階

2:十七条憲法

3:仏教の普及

4:遣隋使

この4つの政策を打ち立てるにあたって、一番重要視したのは、隋への派遣である遣隋使です。

聖徳太子が思い描いたビジョンは、日本を大国中国「随」のような国にするという壮大なものでした

あるいは野心とも言うべきでしょうか。

随と対等になるためには、天皇を盛り立てる実力のある官僚を育成しなければなりません。

そこで「冠位十二階」という制度を設け、実力主義の登用をおこないます。

そして、律令国家として隋に認めてもらうためには、法律を作り、日本が野蛮な国であることを知ってもらわなければなりません

そこで「憲法十七条」を策定し、法治国家としての日本の枠組みを作ります。

また当時の世界では、仏教が主流の教えであり、仏教が浸透していない国は、国に非ずとの風潮から法隆寺などを建立し、仏教の布教に努めます。

聖徳太子の頭の中には、常に「」の存在があったのです。

しかも卑屈な態度で隷属するのではなく、あくまでも対等にこだわったのです。

そこで、「隋」にナメられないために、当時の最先端の技術を駆使した建築技術者が必要だったのです。

実際、日本に来た随の官僚は、当時の建築方式プラス壮大に魅せる建築技術の粋を凝らした四天王寺を見て、日本は先進国であるというイメージを持ったそうです。

聖徳太子は、隋との対等外交に成功し、日本に富と整備した国家確立をもたらしたのです。

・飛鳥時代の大工の役割

飛鳥時代に始まった職業とされる大工ですが、飛鳥時代では「左官」「右官」に分けられていたそうです。

「左官」は、現代の左官職のことですが、その起源は、縄文時代に遡るとされています。

縄文時代の建築物といえば「竪穴式住居」ですが、竪穴式住居の壁の材料となる土を積み上げて土塀を作っていたことが「左官」の始まりとされています。

「左官」を職人集団として組織化されたのが、飛鳥時代で、聖徳太子とされています。

この左官ですが、天皇や高官が携わる神社仏閣を建立する際、無位無官では非常に都合が悪いため、左官という職位を創出したとも言われています。

同じように「右官」も職位として創出された訳ですが、位(くらい)は左の方が上に決まっているのだそうです

左官より下の存在であるということにプライドを傷つけられた右官は、「大工」という名前に改名したとの説もあります。

また聖徳太子が、大工道具である「差し金」を随から持って帰って、普及したそうです。

「右官」転じて「大工」に名前を変更したのも、聖徳太子の「差し金」かも知れませんね。

大工集団は、時代を経て「棟梁」と呼ばれる大工のリーダー職も誕生するほど組織化が進むようになりました。

江戸時代には大工職専用の街があった

約270年もの長期に渡る政権を誇った江戸時代ですが、火事が多かったのも、この時代の特徴です。

火事が多いということは、新しく家を建てなければならないということで、大工・左官・鳶は、仕事にあぶれることがなく給料も高い職業であり、成り手が多かった職業でした。

また技術が高ければ、大名などのお抱え大工にもなれ、地位も人気も収入も望める職業だったのです。

大名の中には、大工の職業集団を作り、生活できるように大工町を作った程です。

現代でも地域に大工町があるのは、名前が示す通り、職人が生活していた場所ということです。

特に有名なのが、栃木県にある日光東照宮の近くにある大工町でしょう。

徳川家康は、全国の職人を集め、町を作り、住まわせたそうです。

そういった意味で、日光東照宮というのは、当時一流の職人たちの意地とプライドの象徴でもあるのです。

ちなみに江戸時代当時の大工の年収ですが、一人前になるまで10年ほど経験を積み、その間はタダ働きなので、半数ほどがリタイアするそうです。

はれて一人前になると、400〜600文ほどです。

平均的な江戸の町人は、300文ほどなので、それほど高くないようなイメージですが、労働時間は4時間ほどなので、非常に割の良い仕事だったのです。

まとめ:聖徳太子は日本文化のパイオニア!

聖徳太子は、隋との対等外交に心血を注ぎ、そのため建築技術者である大工や左官の組織化に励みました。

その甲斐があって、大工・左官・鳶は日本独自の発展を遂げ、世界の建築技術とも違う独自の技術を醸成しました。

また聖徳太子は実在していない、当時の優秀な人物の集合体として「聖徳太子」と呼んでいるなど、諸説ある人物です。

例え聖徳太子が実在していなくても、彼が遺した功績は、日本を文化的、革新的にしたことは間違いのない事実です。

聖徳太子がいなければ、大工が誕生していなかったかも知れないことを考えると感慨深いものを感じ得ずにはいられません。

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